北前交易の伝統が息づく

おかえり祭りへのメッセージ

美川で育った私たちにとって「おかえり祭り」はとても大切なお祭りです。

故郷を美川を離れて生きる人、美川でずっと生きる人、人生はそれぞれですが「おかえり祭り」への思いは同じです。


皆様の大切な思い出など「おかえり祭り」へのメッセージを募集しています。

そして、これまでに多くのメッセージをいただきました。


このメッセージの中から、おかえり祭りだけではなく、昭和30~40年代の美川を見ることができます。

皆様も、ぜひメッセージをお願いいたします。

 

メッセージは こちら (お問い合わせフォーム)からお願いいたします。

 


№1 故郷美川とおかえり祭り

人はそれぞれ事情は違うものの、成長すれば故郷との関係は、残る人、離れる人に大別できる。


故郷を離れた人は、たとえ親・親戚がいなくなり、音信不通となっても故郷への郷愁があり、それが何らかのきっかけで、故郷に足を運ぶことを思い立たせることがある。

 

私の場合はおかえり祭りだった。おそらくこの祭りがなければ、私と私の家族は私の故郷美川に足を踏み入れることがなかっただろう。

 

ところで、私はお会いできなかったのだが、2004年のおかえり祭りで、私の家族が神奈川県在住の92歳になる美川出身者を父親にもつ男性と会話する機会を得た。

 

この男性は、高齢のため美川まで行くことが難しい父親に代わっておかえり祭りの写真を撮りにきていた。いや父親が息子に見に行かせたのだ。

 

息子からおかえり祭りと故郷美川のことを聞いて写真を見た92歳の感慨はいかばかりだったろうか。僭越ながら、私には少しわかる気がする。

 

さて、話は戻って、1969年に美川小学校を卒業したと同時に美川を離れた私だが、2004年の春、美川在住者が立ち上げたおかえり祭りのホームページを見たことで、遠い記憶がよみがえり、私の中にある美川への郷愁を呼び覚ますことになった。

 

そして、家族、とくに2人の子どもに故郷美川が最も輝く2日間を見せる(できれば私と同じ体験をさせる)ことを思い立ち、いてもたってもいられず、家族とともに旅立った。

 

祭り当日、青年団のラッパや神輿、台車で当時の私に戻ったが、祭りに参加する人は同級生も歳を重ねて誰が誰だかわからない。

 

しかし、故郷の人たちはやさしかった。昔美川にいたというだけで、今風にいえば、その絆だけで、親切にも子供たちを台車に乗せてくれ、私も台車の曳手に加えてくれた。

 

故郷美川が「おかえり」と私に言ってくれた瞬間だった。台車を曳きながらわが子を見ると、その昔、死んだ父親が私を台車に乗せて曳いている姿がダブって思い出され、感無量で落涙した。

 

今はただこの祭りを私が美川にいたときの約半分の人口で、遜色なく維持してくれたことにとても感謝している。


 

№2 ラッパの音と寂しさ

 私のみならず、おそらく美川に生まれ育った者なら、おかえり祭りで青年団の吹くラッパの音は体に染み込んでいると言っても過言ではないのではないだろうか。

 

 私は12歳まで美川にいたのだが、そのときまで毎年、春から初夏にかけてラッパの音とともに育ってきた。

 

 その後36年おかえり祭りから離れ、美川から遠く離れて暮らしていても、このとき聞いたラッパの音階は忘れることはなかった。

 

 美川にいた当時、私は中町西に住んでいたので、祭り前にはラッパの錬習音が手取川河畔から風向きによって聞こえ、この音が聞こえると、祭りが近いと大変わくわくしたものである。

 

 また、祭り当日は台車に乗っていようと、露店で買いものをしていようと、同級生と会話をしていようと、青年団や神輿は見えないけれど、ラッパの音はどこからともなく聞こえてきて、おかえり祭りはこの音を抜きにして語れないといえた。

 

 ここまでがわくわく感や祭りを代表する華やかな部分のラッパの音だが、私にとって寂しい音でもある。

 

 というのは、当時の私の家から比較的藤塚神社が近いため、私の家にも祭りのクライマックスの際のラッパの音が聞こえるのである。

 

 前夜、おかえり道中の途中まで台車に乗っていた私だが、眠さに勝てず帰路につくことになる。そして、その時は子どもにとって祭りが終わったという寂しさより眠さの方が勝ってしまっている。

 

 しかし、翌朝、布団の中にいた私はラッパの音で眼が覚めることになる。この時のラッパの音は藤塚神社に神輿がお着きになる直前の音で、大変早いスピードで、その音が鳴りやんだ時、「ああ終わってしまった」と本当の寂しさがこみ上げてくる。

 

 このときの寂しさを美川から離れていたときや今でもときどき思い出すことがある。



№3 台車への愛着心

 外野席から何を言っているんだとお叱りを受けるかもしれないが、美川を長く離れた者から美川在住の方に一つお願いしたいことがある。

 

 それは、おかえり祭りで曳き回す台車のことで、もう少し大事にしていただけないかということである。

 

 台車の台上は神の依り代であり、台車とは神が降り立つ神具である。また、神と仏の違いはあるが、台車はまさに美川仏壇の工芸の粋を集めた文化財でもある。

 

 仏壇は乱暴に扱わないものだし、台車の前輪をよたんび(酔っぱらい)が中心となって高々と担ぎあげて長々と曳き回した後、乱暴に下ろすのはいささかやり過ぎな気がする。これは36年ぶりのおかえり祭りで私が最も奇異に感じたことである。

 

 私が美川在住の昭和30年代から40年代前半、当時の曳手たちはそのような乱暴な台車の扱い方を各辻やお旅所である高浜でもしなかったし、当時の年配者は三輪の台車を方向転換する際、必要となる前輪を持ち上げる高さについて、一定の高さ以上に上げるなと言っていた記憶がある。

 

 ただ、台車の提灯の灯りが蝋燭であったころの名残があったのかもしれない(当時はすでに台車の提灯の灯りはバッテリーによる電球になっていたが、蠟燭の提灯をつけた台車を乱暴に扱うと蝋燭の火が提灯に燃え移ることになる)。

 

 縁起でもないとまたお叱りを受けるかもしれいが、このような乱暴なことを続けていると、いつ事故が起こるかもしれないし、台車がいたみ、修理費で不経済なことになる。

 

 長々と説教調のことを書いたが、本当の理由はこんな理屈より台車を乱暴に扱うのを(とくに私の出身町で)見るにつけ、私の心の中にある小さい頃に尊敬の念を持って大事にしてきた台車に対する愛着心が「やめてくれ」と悲鳴を上げるからである。

 

 なお、よたんびに冷たい昨今だが、良し悪しは別として美川においては私を含めたよたんびへの対応はおおらかで、当時も今もあまり変わらない気がする。

 

 

№4 おかえり祭りのプラチナシート

 私の子どもの頃、私たちは今の子どもより総じて早寝だった。私も見たいテレビ番組があるとき以外は、小学校高学年になっても午後9時ごろには寝ていた。

 

 当時、おかえり祭りの初日、日中曳き回された台車は今と同じように本町通りで夕食休憩となるが、この後は今のように大勢の子どもが台車に残ってはいない。

 

 大人たちの「家に帰んまっし」(家に帰りなさい)の一言で、早寝な当時の子どもの大半は家路の途につくことになる。私もその一人だったが、これから本日のゴールである高浜(お旅所)までどんなお楽しみがあるのだろうと、学年が上がるにつれて段々と残ろうという気持ちが強くなっていった。

 

 また、台車の階段の最上段は子どもにとって祭りのプラチナシートで、通常はあまり通ることがない道の中央からの眺めを高い位置から最前列で楽しめる。これが夜になるとどのようなことになるのか、好奇心旺盛の子どものことであるから、いやがおうにも期待感が高まっていった。

 

 なお、この人気のプラチナシートをゲットするには、美川小学校の最上級生まで待たなければならなかった。というのは、この場所は大変人気で大抵は6年生が座っており、下級生はめったに座れることがなく、悶々とした年が過ぎて行った。

 

 そして、とうとう6年生になった私は、夕食休憩後の台車巡行とプラチナシートの両方を経験するそのときを迎えた。

 

 本町通りを後にして、浜町と大正通りの交差する手前で、台車が最終休憩するあたりまでは、プラチナシートにいても暗がりの道を巡行するだけで昼間よりつまらない。しかし、その後は、プラチナシートと形容するにふさわしい眺めに一変する。

 

 そこから高浜までの間は、ぎっしり道の両側に立ち並ぶ露天とその灯りが迎えてくれる。その賑やかさと光の中を台車が巡行するのだが、視界を遮るものが何もない中央・最上段・最前列にいる私にとっては夢のような時間だった。

 

 さらに、曳き手の大人たちが私のために先導する露払いのように見えて、まるで花道を行く主役の歌舞伎役者になったような心境だった。

 

 高浜では、台車が今より静かに曳かれた後、格納庫前に整列する。他町の同級生の中には、もう動かない台車のプラチナシートから青年団の担ぐ神輿のお着きを見るという猛者もいたが、私は眠くてそれどころではなかった。



№5 台車のくじ

 私の子どもの頃、台車巡行の順番を決めるくじは、今と違って祭り前日であるよんめ(宵宮)の昼に行われた。子どもにとって自分の町の台車が一体何番のくじを引くかは大変な関心事だった。

 

 今のように最終の13番もくじで決めるようになったのは、私の小学校中学年の頃からで、それまでは先頭の1番は今と同じ今町だが、13番は末広町と決まっていた。


 この年から、私の出身町の台車も13番を引く可能性が出てきて、子ども心に13番はイヤだなと思った。なぜ13番がイヤかというと、ただ単に「ビリ」がイヤという単純な発想である。そして、その危惧が現実となるのは、私の小学校6年生のときである。

 

 よんめの日の夕方、小学校から下校し、出身町の飾り付け前の台車に行くと、先に授業を終えて集まっていた下級生が、昼に引いたくじが13番になったと不満げにさわいでいた。

 

 それを聞いた私はどうか間違いであってほしいと思ったが、しばらくして台車の階段下の柱に「拾参番」の紙が貼られたのを見て、現実のものとして受け入れざるを得なかった。そして、とてもガッカリした。

 

 後年、おかえり祭りに美川へ帰ってくるようになってから、このことを当時から同じ町に住む同級生に話したら、「そうかな、13番は後(うしろ)に青年団も神輿も見られて楽しかったぞ」と言われた。

 

 そのとき、私はそういう見方があったなと感心し、前ばかりを見て、後を振り返り青年団や神輿を見なかったことを正直後悔した。当時の私は前回の「おかえり祭りのプラチナシート」に書いたようにプラチナシートをゲットして前を見ることしか頭になかった。

 

 私のその後の人生もほぼ前を向いて歩いてきた。ただ、人生、後を振り返ったからこそ、こうしてわが子と一緒におかえり祭りに参加でき、同級生に会えるのであって、後を振り返るということの大切さをこの一言で教えられた。  



№6 ALWAYS おかえり祭り

 昭和30年代から40年代の前半の頃、美川の子どもは(美川以外もそうだと思うが)、今から思えば、おかえり祭りのときでもあまり「きれい」、「行儀よい」という言葉とは縁遠かった。

 

 今の子どもを当時に連れて行けば、どこの宮家のご子息・ご令嬢かとびっくりされるだろう。当時の台車の上にいる子どもといえば、汗と埃と鼻水で薄汚れた美川小学校の詰襟の制服を着て、尿意をもよおせば、近くの「えんぞ」(蓋のない側溝)で立ちションをしていた。これは、大人も姿形(すがたかたち)こそ紋付・袴に身を包んでいるが、行儀は子どもと似たりよったりであった。

 

 そして、そんな大人の休憩時の酒肴は、今のレベルに比べればあまり程度のよいものではない。酒は五月晴れで暑くなっても、今のように冷えた缶ビールや缶酎ハイがあるわけではなく、常温の日本酒一本勝負であり、肴もビニールの大袋に入った「さきいか」程度のものであった。

 

 それでも、私の父親を含めた大人は台車の当番の年となると、機嫌よく下駄を履いて祭りに参加していた。機嫌がいい証拠に私たち子どもは、台車の階段下にある先述のささやかな肴を盗み食いしても、お目こぼしにあずかって叱られなかった。

 

 そんな当時であるが、子どもにとって、何が今と最も違うかといえば、祭りに対するひたむきな熱さであろう。今、台車の上にいる子どもに聞けば、祭りよりディズニーランドの方が楽しいと言う者もいるし、祭りそっちのけで携帯電話やゲーム機に興じている者も目にする。

 

  しかし、当時、ディズニーランドは遠い海の彼方のものであったし、携帯電話やゲーム機もなかったから、脇目もふらず祭りに熱く集中した。あまり熱く集中したがゆえに、祭りの2日間はあっと言う間に過ぎていったし、終わった後の寂しさは例えようもなかった。

 

 それは、娯楽の少ない同時代を生きた大人にとっても、今以上にそういった人が多かったと思う。



№7 おかえり祭りの色

 おかえり祭りで最も印象的な色は何色を思い浮かべるだろうか。青年団が紋付にかけた襷の「白」だろうか。神輿や台車に塗られた漆の「黒」だろうか。それともそれらに飾り付けられた布や幕の「赤」だろうか。私は青年団のラッパや台車の随所に施された飾り金具の「金色(こんじき)」を思い浮かべる。

 

 私の子どもの頃、青年団のラッパと台車の飾り金具には共通する点があった。それは両方とも真鍮製のもので、真鍮は1年も経つと金色の輝きは鈍くなり、これを祭り前に金ピカになるまで磨き上げなければならないという点である。

 

 今はこの飾り金具には鍍金が施され、祭り前に磨くことはなくなったが、当時は祭りの1週間ぐらい前になると台車が格納庫から曳き出され、各町所定の場所に停め置かれた。そして、この間に子どもは台車の掃除とともに、飾り金具を磨くことが仕事として与えられた。

 

 この仕事はもちろんボランティアだが、当時の子どもは毎日下校後、自分たちの町の台車に集合し、青年団のラッパ手がラッパを磨くのと同じように、磨き粉をウェスにつけての金具磨きに精を出した。こうして、美川の子どもは祭り気分を醸成していき、自分たちの町の連帯感を高め、かつ台車への愛着心を深めていった。ただ、ときには精を出し過ぎて、金箔部分も飾り金具と勘違いして磨いてしまい漆の黒を露出させた失敗もあった。

 

 さて、この真鍮磨きにより金色に輝く飾り金具が祭りになると、青年団が吹くラッパと同様に、昼は陽光に照らされ、夜は暗闇の中での照明の光で照らされ、まぶしく輝いている様がとても印象的であり、金箔も含めた金色はおかえり祭りを豪華に彩るに最もふさわしい色であるとつくづく思ったものであった。



№8 おかえり祭りの順延

 私がまだ幼児だった頃、おかえり祭りが台風だったか、低気圧だったかの荒天で、1日順延したことがあった。当時の祭りの実施日は5月29日、30日だったので、30日、31日にずれこんだことになる。

 

 この荒天当日、私は自宅の前を何かが強風で転がっていくのを窓から眺めていた。しかし、順延された日の神幸祭は五月晴れとなり、私は出身町の台車に乗り、美川小学校の児童に混じって、そのすみに座っていた。

 

 この後、おかえり祭りが順延したということを聞かないので、この年以来、実に半世紀も順延したことがないのだろう。

 

 おかえり祭りは、古い文献の中に「日和次第」とあるように、昔から「天気次第」で順延することがある祭りだったようである。


 この意味するところは、おかえり祭りは他の祭りやイベントのように中止やプログラムを変更して行う(他の多くの祭りでは、その期間が2日あるとしたら、そのうち1日が荒天の場合、その日は中止で、天気が回復した日のみ実施する)ことはなく、順延してすべてを順序どおり行うということである。

 

 これはおかえり祭りを楽しみにしている人には大変ありがたいことだが、一方でサラリーマンが多い今の美川で、私も含め祭りが順延されると休暇取得の都合上、非常に困ったことになる。このようなことを心配しているのは私だけだろうか。

 

 断片的な記憶だが、順延した当時の美川は、おかえり祭りの高浜にはサーカスが来てトラだかライオンだかがいたし、北町には映画館があり、自宅近くの道には馬車が通った頃の話である。

 

 なお、この後、おかえり祭りは、私の小学生の高学年のときに22日、23日の実施日に変更されることになり、私は1週間早く祭りが来るということで単純に喜んだ。  



№9 新町だけが台車2台

 子どもの頃、美川10町のうち、なぜ新町だけが東西2台の台車を所有しているのだろうかと素朴な疑問を持ったことがある。

 

 他町は1台の台車を東組と西組が毎年交互に当番となり、おかえり祭りで巡行する(当番でない組はその年は休みとなる)が、新町だけが東西休みなく毎年巡行する。


 これは新町の祭り好きにとっては堪えられないことだが、他町の祭り好きには垂涎の的であったろうと推察する。ただ、子どもの数が多かった当時であっても、私を含めた子どもにとっては東西関係なく、毎年自分の町の台車に乗っていた。

 

 しかし、新町以外の大人にとってはそういうわけにはいかなかったはずである。

 

 この素朴な疑問を解決するために、もうすでに故人となられたが、生存中、美川の中でもおかえり祭りに詳しい方に質問をしてみたことがある。

 

 このとき、「大きな声では言えんけど」と前置きをした後、以下のような話しをしてくれた。 昔、新町も台車が1台だけだったが、祭りでの巡行は西組に偏ったものであった。なぜなら、美川は古くから北前船や漁業で栄えた港町で、港に近い西組の方が東組より裕福であったので、台車の建立資金は西組に偏っていたからである。


 そのため、年々歳々、東組住民は自分達も思う存分台車を巡行したいと思うようになり、各戸から資金を集めて新たに東組の台車を建立しようということになった。そして、大正年間に大部分が白木ではあるものの台車を完成させた。このときから新町だけが東西2台の台車を所有することになったといった内容だった。

 

 真偽はともかく、この話しを聞いて更に疑問が出てきたが、残念ながら聞き忘れてしまった。 それは、昔は新町だけが西組偏重の台車巡行だったのか、それとも他町も西組偏重の台車巡行だったが、その中で新町東組だけが新たに台車を建立しようということになったのかということである。



№10 うらやましいぞ! 太鼓

 以前に台車のプラチナシートの話を書いたが、実はわが子が小学校中学年にしてこのプラチナシートをゲットして、昼夜とも台車巡行を経験している。

 

 私の日頃の薫陶がよく、台車を曳いていた私が後ろを振り返ると、そのシートにちゃっかり座っているのが見え、本当に嬉しかった。

 

 後で夜のプラチナシートの感想を聞いてみたら、「よかった」と言った後、「けど、太鼓も叩きたいし」と言っていた。

 

 おかえり祭りの音はラッパが一番だが、キーギー(台車の車輪の軋み音)と子どもが叩く太鼓が加わってこその祭りである。

 

 今は私の出身町の台車にも太鼓があるが、私が子どもの頃は残念ながら無かったから、少し寂しい思いをし、太鼓がある台車をうらやましく思った。

 

 また、別の理由でのうらやましさだが、永代町は赤人という狩衣を着た子どもが太鼓を叩くが、同級生にもいて、祭り当日はこの役で学校は休みとなり、「いいなあ」と思わずつぶやいたものである(別途、このつぶやきの理由につき、詳細を書きたい)。

 

 さて、祭り初日の台車は休憩時以外、1日中動いているから、太鼓の音が聞こえても少し寂しさはあるが、うらやましさはそれほどでもない。しかし、2日目の日中は、高浜の格納庫で動かない台車にいても手持無沙汰であり、このとき、太鼓の音が聞こえてくると切ないくらいうらやましいと思ったものである。

 

 この太鼓のリズムは、江戸の神田囃子のような複雑なものではなく、私のようなリズム感が極度に劣る者でも覚えやすく叩けてしまうもので、36年ぶりに美川に帰って来たとき、このリズムは覚えていたし、私の頭の中でシンクロしていた。

 

 なお、わが子の言った「太鼓も叩きたいし」の後は、「やんさん(台車の前輪を持ち上げること)が高くて怖かった」と言っていた。  



№11 悲願達成

 私の小学生時代、今と違いおかえり祭りの実施日は土日でなかったし、土曜日も学校が休みでなかったから、祭りと授業が重なり歯がゆい思いをした。

 

 美川小学校も1年に1度の祭りの日なので授業は2時限目で終わるのだが、祭り初日の放課後、学校から猛ダッシュしても、すでに北町を巡行する台車に追いつくのがやっとで、私の出身町(筋)を巡行する台車に乗ったことがなかった。また、昼間のメインイベントである美川駅前の神輿渡卸も見たことがなかった。

 

 どこで私の出身町の台車に追いつくのかは、くじによる巡行の順番次第で、早い順番を引くと北町西の川側まで巡行が進んでいる年もあった。

 

 ただ、私の出身町の台車を探しあてて乗ったとき、駅前のラッパの音が聞こえた年もあったが、すでに神輿渡卸の最後のものであった。

 

 青年団に担がれた神輿はその巡行の都度、赤い軍配まで進むが、そのほとんどが短い距離、即ち短い時間で終わり、長い時間続く渡卸は駅前のものを含めてわずかしかない。そのわずかなチャンスを逸するというのは子ども心に何とも残念であった。

 

 36年ぶりに美川に足を運んだとき、もう大人なので、台車に乗ることはできなかったが、初めて出身町(筋)を巡行する台車の列を見ることができた。続いて美川駅前の神輿渡卸を見て、小学生のときの悲願を達成できた。その後も毎年、おかえり祭りに参加しているが、必ず美川駅前の神輿渡卸を見ている。

 

 余談だが、ご祝儀をもらった青年団がそのお礼に行う「あんやと踊り」は私の小学生だった当時、すでにあったのかもしれないが、私には見た記憶がまったくない。

 

 なお、前に永代町の赤人になった同級生を私がうらやましげに思わず「いいなあ」とつぶやいた旨を書いたが、その理由は学校が堂々と休めるということもさりながら、早い時間帯に台車に乗って私の出身町(筋)を巡行することができるからである。 



№12 美川の母親世代

   おかえり祭りに再び参加するようになってから、もう少しでおかえり筋が一回りしようと(10年が経とうと)している。おかげ様でおかえり筋にご招待やご相伴にあずかることがあり、同級生や昔ご近所だった家に行くことがある。

 

 そこで、久しぶりにその家の母親たちに会うことがあり、私が名前を告げると、彼女たちは私のことをよく覚えている。

 

 12歳までしかいなかったのによく覚えているので、私も有名だったんだなあと思ったら、その有名は英語でいう「famous(良い意味での名高い)」ではなく、「notorious(悪名高い)」であった。

 

 私は子どものとき、美川の地で自由に伸び伸び育ったが、性格は短気で我が強く、乱暴者なので迷惑をかけた。

 

 私はすっかり忘れていたのだが、昔の悪い所業が次々と彼女たちから語られるのである。そのときの私は顔で笑っているものの、本当は穴があったら入りたい心境である。

 

 当時、彼女たちによく叱られた。実際叱られるようなことをしたから仕方がない。しかし、当時は「何をこのくそババア」と思ったこともあった。私が今住んでいるところに、「よその子も自分の子のように叱ってください。」という標語が掲出してあるが、そのとおりに叱ってもらった。

 

 仕事もプライベートも順調な時期、私はまるで自分一人で育ったように思い、振る舞ってきたこともあった。しかし、再びおかえり祭りに参加し、彼女たちに再会するようになってから、私は彼女たちをはじめとする美川という地域に育ててもらった部分が大きいと思うようになった。三つ子の魂百までもというが、その土台を基にその後歩み、今あると思う。

 

 おかえり祭りで同級生や他の同年代に再会するのはなつかしく感動するが、後で何ともいえず涙が出てくるのは彼女たちとの再会だけである。

 なお、残念ながら、父親たちは鬼籍に入っている人が多く、会うことは少ない。



№13 ALWAYS 続おかえり祭り

 おかえり祭りの2日目は、台車や神輿が夜にならないと動かない。私の子どもの頃は、台車が動き出すのは今よりも遅く、普段の就寝時間を過ぎていた。

 

 2日目の日中、初日と違い子どもが何をするかといえば、その多くは動かない自分の町の台車を拠点に、高浜を中心に展開する露店に行ったり来たりの1日だった。

 

 当時の露店には、今もって何という名称かわからないが、小さい長方形の板の甘く薄く、かつ堅い菓子に絵が薄く彫ってあり、この絵を釘でこすってその通りにくり抜くと商品がもらえるというものがあった。この菓子は細い高難度な絵をくり抜くほど豪華賞品がもらえたそうだが、私は簡単な絵をくり抜く者しか見かけたことがなく、このような一か八かなものにお金を使わなかった。

 

 当時、私はおでんが大の好物で、祭りの2日間で、美川小学校で決められた上限200円の小遣いの半分以上を使った。とくに祭り2日目の夜は半額になり、好物の竹輪を中心に腹いっぱい食べた。おでんを食べた理由は、当時の人気マンガ「おそ松くん」のチビ太がよく串刺しのおでんを持っており、その影響があったと思う。私は高浜でイヤミのやる「シェ~」をよくした。映画ではゴジラでさえ「シェ~」をやっていた。

 

 そして、子どもが大方いなくなった夜、台車の提灯に灯りがともり、私はいっぱいなったお腹で台車に乗り込み、動き出すその時を待つのである。その待つ間、満腹感も加わって眠気が私を襲い、すでに夢見心地だった。

 

 以前、私の子どもの頃は、今より総じて早寝だったと述べた。ある年、私の出身町の台車で乗っているのは私だけだった。たった一人の子どもを乗せた台車が今のような派手なことはせず、そろりそろりと高浜を出発しおかえり筋に向かっていくのである。

 

 台車で座っている場所は当然プラチナシートだが、眠いので見えるのは前輪と地面ばかりである。そして台車がおかえり筋で休憩に入り、動かなくなったとき、眠さに耐えきれず、家路を目指すことになる。

 

 そして翌朝の登校時、道に残った台車の車輪の跡を目にすると、昨夜、夢見心地で見たことが夢でなかったと理解した。なお、当時の美川は、南町をはじめ未舗装の砂利道が多かった。  



№14 子どもが大勢いてこその祭り

 今、台車に乗っているのは男の子だけでなく、女の子もいるから賑やかさだけでなく、華やかさもある。私が台車に乗っていた頃、女の子は各町所有の台車には触れることさえできなかった。当時、私たちは、上級生であろうと女の子が自分の町の台車に触れようとすると「台車が穢れる」と言って追い払った。

 

 後年、祭りの期間中、女の子は一体何をしていたのか気になって、女の同級生に聞くと、「家方(組)に乗っていたよ」と返ってきた。家方組の台車はその飾り人形が「舞姫」で女の人形、即ち人形といえども女が乗っているから、生身の女も乗ってもよいということになったと思う。


 しかし、それは理屈づけの話しで、本当のところは伝統文化より、同じ子どもなのに不憫な女の子を楽しませようとした家方職人の優しさがそうさせたのではなかろうか。

 

 そのことと関係あるかはわからないが、何年か前、私の出身町が「おかえり筋」に当たり、神輿・台車の舞込み(家に上がって酒食の接待を受けること)先を決めるに際して、受け入れる家がどこを接待したいか希望を聞いた。その結果、トップは青年団だが、次は家方組だと記憶している。

 

 さて、子どもが少ない祭りは寂しい、地域の活力は子どもなくしてあり得ないと思う。少子化の顕著な今の美川で、女の子が台車から消えると火の消えたような祭りとなる。台車も子どもを乗せてこその台車であり、子どもが大勢乗った方が大人も曳く甲斐があるというものである。


 私は36年も祭りから離れていたので、いつから女の子も乗るようになったかわからないが、この変化は歓迎している。

 

 女性が男性の分野にどんどん進出する21世紀であるから、将来、おかえり祭りは、子どもだけでなく大人の女性も参加する祭りになっているかもしれない。例えば、巫女さんのような格好の女性が神輿を担いだり、台車を曳いたりして。  



№15「こんかつめ・こんぶまき」と「神輿」

 美川は「こんかづめ」(「糠漬け」では私の心にはちょっと響かない)が有名である。しかし、かつては私のいる東京では手に入らないので、石川県出張があると金沢の名鉄丸越で買って帰ったものだった。それと同等に忘れがたい味がある。

 

 それは「こんぶまき」であり、同級生の店先で売られていた。夕方になると、何ともいえない良いにおいがして、食欲をそそった。

 

 あのニシンを昆布で巻いたものは、東京でも手に入るが、私の中で「こんぶまき」という味にはほど遠いものだった。というのは、味を文章で表現することは難しいが、味が濃く、独自の風合いがなく、心に響かないのである。  

 

 それと同時に「神輿」は私の中では美川の「神輿」で、上京後、見たものは、私にとって「神輿」とは違和感があるものだった。

 

 美川の「神輿」と東京のそれとを比較すれば、担ぎ棒は丸棒と角棒、そして、黒塗りと白木。担がないときの脚が消防団によって取り付けられた脚と「馬」と呼ばれる背の低い脚立。鳳凰は発輿・着輿時の入れ・出しの有無等、挙げれば多々ある。

 

 最も私にとって大きな違いは、神輿を担ぐ際に発する掛け声は、美川は「ワッショイ」、東京は「オイサー」または「ソイヤ」。

 

 昔は東京も「ワッショイ」の2拍子だったと聞いたことがあるが、時代とともにスピード化し、「オイサー」または「ソイヤ」の1拍子となっている。 

 

 「ワッショイ」は「和を背負う」といわれており、協力し合って背負うだから、美川は団結、今風でいえば「絆」が強く、和の「ワッショイ」が合っていると思う。

 

 また、2拍子のリズムはラッパのリズムにマッチしている(ところで、話は変わるが、今年の日本ダービーは「キズナ」が勝つような気がする)。

 

 久しぶりに美川の「神輿」を見た(聞いた?)とき、ああ「これだ」と思った。先述した「神輿」そのもののこともそうだが、2拍子のリズムとラッパのリズムがマッチして私の心に響くのである。

 

 さて、戻って「こんかづめ」だが、美川には多くのメーカーがあり、その味も違うが、私には南蛮が入った、大人向けの味がする某商店のものが好きである。



№16 おかえり祭りの今昔 2013年5月21日

 今年おかえり筋に当たる浜町を歩いてみて、私の出身町と同じく道路が拡幅となり、美川の中でも昔の面影を留めない双璧の町となったことを改めて実感した。

 

 ところで、大正期から昭和30年はじめ頃のおかえり祭りの写真を見ると、台車の曳き手の紋付・袴姿は今と変わらないが、「下駄」を履き、「かんかん帽」や「ソフト帽」を被っている姿が見られる。

 

   私は何年か前に、台車曳行中に桐の下駄を「北田履物店」で買い求め、昔のように履いて台車を曳いてみた。余談だが、下駄は5250円で、5000円にまけ(値引き)してくれた。下駄を履いて曳いてみたのはいいが、ほんの数時間で足の親指の付け根が鼻緒にあたって痛くて、履くのをやめてしまった。 昔の人の足はつくづく丈夫な足を持っていたと思った。いや下駄を履き慣れていたというべきか。

 

 もう一つの帽子だが、祭りの初日は早朝から夜まで台車を曳き回すので、一日中、強い日差しを浴びることになる。日焼けはするし、日射病のリスクもあるので、今年は帽子を被ってみた。そうしたら、これは大正解で身も心も爽快に台車を曳けた。

 

  その格好で、所用があった私は台車から離れ、末広町から浜町あたりを1人で歩いていたら、90歳代の方(後で年齢をお聞きした)からお呼び止めいただいた。

 

  私に何の用事かと思ったら、私ではなく帽子のほうに用事であった。私の帽子を被らせてくれというのである。

 

  そして、私の帽子を被った90歳代の方はご満悦で、「これは『「かんかん帽』や」、「昔は(美川の者も)みんな被っとたわ」、「懐かしいなあ」ということであった。その後、意気投合し肩を抱き合ってしばらく歩かせていただいた。

 

  また、女子高校生から「おじさんおしゃれ」という旨のありがたい言葉もいただき照れくさかった。

 

  さて、今年の祭り当日の天気は初日が好天だったが、2日目午後から雨天となった、 過去、祭り当日はこのように雨や台風のような天気もあったが、「よんめ」(宵宮)の日は私が覚えている限り、一度小雨があった程度で今も昔も天気には恵まれている。



№17 美川保育園・幼稚園以来の仲  平成25年5月21日

 子どもの頃見た、旗手がリードし、青年団が円座になって行う拍手は迫力があった。何しろ今と違い大勢の団員がいたのだから。

 

 今年の拍手を見ていると少し寂しい気がするが、逆にいうと、この員数で青年団を維持し、祭りの奉仕を全うしようとする心意気は、私に言わせれば、よくやっているを超えている。

 

 青年団も元をたどれば、表題のとおり美川保育園・幼稚園以来の仲であり、この絆がOBになっても、特に同級生で強いものを見せている。

 

 昨年の祭りでは、私の学年でこの絆の一面を見ることができた。私の同級生の一人が今年のおかえり筋にあたったのだが、一人者だし、手伝う人もおらず、家も手入れしていないので、本人がおかえり筋にあたっても招待はしないと言っていた。  

 

 ところが、美川に来て同級生の一人から招待状が来た旨を聞かされ、私は自分に招待状がなかったので、「あまり行きたくねえな」とへそを曲げた。

 

 祭り初日の朝、台車巡行にいた私のもとを、この同級生が探して来てくれ、遠方なので招待状を出せなかったと詫び、招待を告げてくれた。

 

 聞けば2、3人の同級生が中心となり、招待できないと思われた諸事情を克服したようだった。さらに祭り初日に会う何人かの同級生に、彼の一世一代のこのおかえりを盛り上げようと声を掛けられた。

 

 招待された当日は支度や接待を同級生が行い、さらに玄関とトイレに花を飾る者までいて、同級生のありがたさを大いに感じた。また、近所や町内の知人の方々も「よかったね」と言って訪ねてきてくれ、我がことのようにうれしかった。

 

 私も日頃慣れないことを手伝って、途中少しくたびれ、酒はあまり飲まなかったが、大いに楽しませてもらった。

 

 そして、クライマックスは、この同級生がおかえり筋で行進する晴れ姿を、彼の自宅前から見て、今年は本当にいい祭りだと思った。




№18 我が師とおかえり祭り

 おかえり祭りで同級生宅に招待されると、否が応でも同窓会となる。今年は美川小学校の先生(我が師)の話をする機会を得た。

 

 我々の世代が子どもの頃、先生は概ね厳しかった。私は授業に集中しない子どもだったので、腹を立てた先生が投げる白墨をかわしながら授業を受けたこともあった。


 親も親で、先生に会うと「もっと厳しくしてください」とお願いしていた。学校で先生に叱られ、そのことを家ですると、家でも親に叱られ、私たち子どもは立つ瀬がなかった。

 

 私が最上級生のとき、校内で最も厳しい先生が担任になった。今なら大問題になっていると思うが、ある日の放課後、先生にちょっとだけ抗弁したら算盤のカドで頭を叩かれ、出血したことがあった。

 

 そんな目にあっても私はこの先生を恨んだことはない。かえって、その厳しさのお陰で、黙って授業を聞くしかなく、授業をマジメに受けるということと、授業をマジメに受ければ成績が上がるということを知った。

 

 後年、故郷に帰ってくるようになって、私と同じ出身町の同級生から、その先生が逝去されたことを知った。そして、その同級生の計らいで墓参りができた。

 

 小学生のときは、どう贔屓目に見ても優等生とは言い難かったが、そんな私でもどうにかこうにか、毎年、東京から子連れでおかえり祭りに参加できるような生活をしていけるのは、この先生によるところもあると思っており、本当に幸せなことである。そんなことを墓前で報告できて感慨一入であった。

 

 当時、そんな厳しい先生でも、おかえり祭りの日は授業終了の挨拶が終わるや否や、猛ダッシュで下校する私を叱らなかった。

 

 厳しい先生はよく覚えているもので、今もこの先生の話を誰彼となくすることがある。

 

 

№19 故郷変わって祭りあり

 故郷に残った者は、日々の生活として毎日、自分の町としての変化を見ているが、故郷を離れた者は、当然のことながら、久しぶりに故郷の変化を見ることになる。

 

 毎日見る我が子の成長に比べて、久しぶりに見るよその子の成長に驚かされるように、故郷を離れた者は、久しぶりに見る故郷の変化に驚かされることに加えて、それが故郷であるが故に、心の中の故郷とミスマッチとなり、感慨一入(ひとしお)のものがある。

 

 私も36年ぶりに故郷を訪れたとき、その変化に驚くと同時に、その月日の長さを思い知った。

 

 まず故郷の玄関口である駅舎が建て替わっていてまったく違う。また、住んでいた中町は拡幅工事で大きく変容していたし、住民も誰が誰だかわからなかった。

 

 このような中で私が浦島太郎にならなかったのは、私を長く記憶にとどめていてくれた同級生がいたからである。

 

 ただ、母校(小学校)に行くと、校舎は二宮尊徳の像とセットで、当時のままであり、なつかしく、例えようもなくうれしかった。校舎の中を覗くと、廊下には右側通行を守る ために設けられたセンターラインが引かれてあり、これも当時のままだった。

 

 子どものときの歳月は、乾いたスポンジが水を吸収するように、その中核から純粋で無垢に大量に吸収されていく。大人になってからのそれは、この中核となった水と相和して吸収されることもあるが、その量は子どものときの吸収量とは比べると少ないことが多い。

 

 それどころか中核となった水と合わないために吸収を拒むことさえある。私の中核は、この故郷で暮らした少年時代で形成されていたことを、故郷に再訪してから改めて気付かされた。また、加齢するに従って、それを段々と強く自覚するし、誇りにも思うようになった。

 

  故郷に毎年来るようになって、ほぼ10年の月日が流れると、我が母校も建て替えられ、故郷のシンボルタワーであった水道塔がなくなり、今年はいよいよ旧美川大橋もなくなるという。

 

 一抹の寂しさを感じるのは私だけではないだろう。しかし、同級生から送られてくる写真や映像などを見ると、白山は相変わらずの姿を見せているし、手取川もこの白山からの水を滔々と日本海に運んでいる。

 

 そして、毎年5月は今も昔も変わらず故郷が最も輝く季節になる。それは「おかえり祭り」がやってくるからである。

 

 私と我が子は、この祭りをとても楽しみにしているし、今後もそうだと思う。また、故郷に残った同級生のお陰であるのだが、何よりこのことを我が子が子どものときに体験させることができ、少しでも継承できたのは、私の最大の喜びの一つである。  


      

                         

№20 美川のラッパ

 今は便利な世の中で、青年団によるラッパの練習風景の写真が、美川から遠く離れた私のもとへ同級生から一瞬で送られてきた。とてもありがたいことである。

 

 余談だが、子供時代の近所の「ばあば」(おばあさん)はとてもありがたいことを「ごもってね」(「もったいない」にこれを強める「ご」がついて「とてももったいない」の意から「とてもありがたい」意味となる)と言っていた。

 

 これを見ると、ああ「いよいよだなあ」と思うし、物理的に聞こえるはずもないラッパの音が私の耳にこだましてくる(これ本当)。

 

 このラッパの音が聞こえる現象は、赤ん坊のころから子守唄のようにラッパの音を聞いてきた者の特権であると思う。

 

 私が子ども時代も、手元にある写真のように手取川の土手で青年団が練習していたし、その音が風向きによって、当時の我が家にもよく聞こえた。

 

 普段着だとそうでもないが、紋付・袴姿に白襷をすると、子どもの目にはラッパ衆のあんちゃん達の姿はそれはそれは眩しく見えたものであった。またも余談だが、今たまに聞く軍隊のような「ラッパ隊」という呼称は、私の子どもの時代は聞いたことはなかったし、個人なら「ラッパ手」、集団なら「ラッパ衆」であった。

 

 私の子ども時代の年配の方は、ラッパのないおかえり祭りを体験してきていて違和感を持った人を私は見かけたことがある。しかし、私はラッパなくしておかえり祭り、いや美川は語れないといっても過言ではない。

 

 私が36年美川を離れていても、その間、ラッパの伝統をひたすら守り続けてきた青年団を誇らしく思っているし、今日の青年団の員数でよくぞこの伝統を守っていると感謝しているのはおそらく私だけではないだろう。

 

 青年団も男ばかりと思われがちだが、そういった彼らをさまざまにサポートする女子部も忘れてはならず、彼女たちは今も昔もほほえましくあり、今で言う「女子力」が総じて高いと思う(子ども時代は私達にとって、たまにはキツかったが、面倒見がよく頼りがいのあるお姉ちゃんたちだった)。

 

 このラッパの練習音を聞いて、大人たちの「今年のラッパは上手や」、または「今年のラッパは下手や」などといった会話が町のあちこちで聞かれて、美川の祭り前の日常は進んでいく。

 

 それは多分、今も昔も変わりがないと思う。このように祭り当日だけでなく、美川の今の日常はラッパとともにあり、遠く離れていても、私の今の日常も写真を見ながら美川のラッパとともにある。

 

 ああやっぱし、美川はラッパやなあと思う。

 



№21 神幸町の台車

 昨今はよく台車の修復を見かけるが、私の子ども時代を振り返るとたった1回だけ台車の修復のお披露目を見たことがある。

 

 それは自分の町ではなく、他所(よそ)の町の台車のそれだった。

 

 その修復された台車は、今年(2014年)のおかえり筋に当たる神幸町のものであり、当時、私たち子ども同士の会話の中では最もボロっちいと言われていた台車であった。

 

 そのお披露目は、私たちの学年が美川小学校でも最高学年に達した年の秋祭り(本祭り)の出来事だった。 修復が終わって金ピカとなった神幸町台車は、祭り当日と同様に提灯や幕などを飾り付けて自分の町(筋)である神幸町を曳行された。

 

 その日まで、このことを全く知らなかった私は同級生から教えられ、猛ダッシュで見に行った。

 

 この曳行を見た私の印象は、修復の終わった金ピカやキレイさより、5月に次いでもう1回台車が曳行できて(もう1回祭りができて)きなるい(羨ましい)との思いだけだった。

 

 また、男児しか台車に乗ることはできなかった当時、神幸町には男の同級生が多く、私が記憶しているだけでもiくん、Oくん、Kくん、Mくん、Rくん、Yくんと6人もいたから、彼らが羨ましくて本当に仕方がなかった。

 

 私の学年の児童総数は94人で、そのうち仮に半分が男児としたら47人、10町ある美川において、学年の男児総数47人を町数の10で割ると1町平均4.7人になり、この平均男児数よりも1.3人も多いことになる。

 

 ちなみに私が所属した町の男児数は3人であり、この2倍の(先述した1町当たりの1町当たりの学年平均男児数より1.3人多い)男児が私から見てとても羨ましい思いをしたことになる。

 

 後年、私が美川を再訪するようになってから、私の出身町が、おかえり筋に当たる年に台車を修復してお披露目することになった。

 

 自分の出身町の方々のご厚意で、祭り前のゴールデンウィーク中に、このお披露目に参加させてもらった。

 

 実に41年の歳月を経て、1年に2回の台車の曳行をようやく実現させてもらったことになる。なお、この年から自分の出身町の台車は早い曳行順のくじを引き当てている。



№22 着輿

 私が少年時代、還幸祭で神輿がおかえり筋を経て藤塚神社に着輿後の朝、私は「よたんび」(酔っぱらい)が道端に座り込むように酔いつぶれて寝ている姿を何回か見かけたことがある。

 

 これは青年団も例外ではなく、当時、酒は日本酒一本勝負であったから、神輿を担いで喉が渇けば、日本酒を呷(あお)るしかなかったし、また、祭りと盆・正月ぐらいでしか、ふんだんに酒が飲めない時代であったから、つい度を超すことが多かったのだと思う。

 

 しかし、今は、神輿の着輿が私の少年時代においては私がそろそろ起床しようかという時間帯であったのとは違い、早くなっていることも手伝ってか、そのような「よたんび」を見ることはなくなった。

 

 さて、私は故郷を再訪後、自分の出身町がおかえり筋に当たる年、初めて神輿を担いでの還幸祭を経験した。

 

 今の神輿は着輿同様、少年時代の発輿時間より早い時間帯に、高浜(たかま)を出発する。このときは担ぎ手も多く、それを見物するギャラリーも大勢いる。

 

 しかし、高浜を離れると、担ぎ手の主体であるおかえり筋の町衆がどんどん減っていき、担ぎ手は青年団主体のものとなり、その周囲も閑散としてくる。

 

 このため、高浜(たかま)では目立つイイ位置で神輿を担げなかったものが、おかえり筋に入ると、どの位置でも自由自在に神輿を担げるようになる。

 

 しかし、この反面、だんだん担ぎ棒が肩に食い込み、それが深夜という時間帯とも相まって疲労度が一層増してくる。

 

 それでも、私の出身町が次のおかえり筋に巡ってくるのが10年後であり、私の年齢を考えると、最初で最後の神輿を担いでの還幸祭となると予想されることから、神輿で1分1秒でも長く祭りをやっていたいという思いを胸に、発輿時より神輿から離れずに担いでいた。

 

 そして、おかえり筋の東から西に入る前あたりから、「早く祭りが終わってしまう」との思いが高じて、神輿の正面から神輿のスピードを抑えるために逆方向に押した。

 

 これを何回か繰り返した後の休憩時に、出身町のある人から言われたことがある。それは概ね以下のような内容だったと思う。

 

 「自宅の前で(椅子に座って)律儀にずっと寝ないで、神輿の通過を待っている「ばあば」(おばあさん)を見てくれ。これを見て気の毒と思って早く寝かしてやろうと思わないか。」ということだった。

 

 還幸祭は毎年、どの町がおかえり筋になろうと、東から西へ進む。このため、東は西より台車の「舞い込み」も神輿の自宅前の通過も早く終わるから、早く休めることになる。

 

 しかし、西は遅くなり、とくに最西端は深夜を通り越し、それは朝に近い時間帯となる。これは体力がある若い世代でも負担となるのに、年寄りにとっては相当な負担となるに想像は難くない。

 

 先述の一言から、私は自分の少年のころを半分育ててきてくれたような「ばあば」たちのことを考えると、私はいかに自分勝手だったかと反省した。

 

 その後の神輿は順調に進行していき、藤塚神社に着く前あたりから、担ぎ手や周囲の関係者がぐんと増え、着輿のときを迎える。

 

 着輿の直前の数分間、私はくたびれ果てている体とともに、少年時代に聞いたあのだんだん早くなるラッパのリズムの下で、頭の中は走馬灯のように、今と昔の美川におけるさまざまな場面が交錯していた。

 

 そして、着輿後、青年団のラッパ手はラッパ手、旗手は旗手で集まり、お互いの健闘を讃え合っている姿を見るにつけ、一つの目標に向かって、同じ方向性を持ち、それを完遂した青年のひたむきさはすばらしいものであり、故郷美川の祭りの伝統が今後も変わらないでいてほしいと強く思いつつ私の還幸祭は終わった。



№23 我が町が一番

 私が故郷に再訪し、おかえり祭りに再び参加するには、どこかの台車の曳行に参加することが必要であった。

 

 「よんめ」(宵宮)の日、私の足は我が子を伴って、ごく自然に私の出身町の台車に向かった。

 それはなぜかと一言で言えば、私の出身町とその台車には、私の色んな思いが詰まっており、最も愛着があるからである。

 

 私の子どものころ(今でもそうだが)、私は出身町の台車が自慢であった。多々自慢するところがあるが、一番目は何と言っても、台車の背が高く、子どもが乗る台上も、他の台車よりも高く眺めが良いことだった。

 

 小学生中学年のころ、同じく背の高さで自慢する他町の同級生との間で自慢比べになり、口頭では決着がつかず、どちらの町の台車の背が高いか実際に比べてみようということになった。  

 

 この二台の台車は、当時も台車を格納する小屋が隣接しており、その高さを比べたが、自分の町の台車の高さが上回ったと、その同級生が主張した。

 

 その主張はその同級生の町の台車の飾りものが、私の町の台車の屋根をほんのわずかに上回ったというものであり、私からすれば、それは本末転倒で、例えていうなら、3千メートルに満たない山がその山頂に石を積んで、無理やり3千メートルになったと主張しているのと同等だった。

 

 こんなふうに当時の美川の子どもたちは、その思いを外に出すか否かは別として、自分の町とその台車に愛着を持ち、「我が町が一番」と心の中では思っていた。

 

 後年、同じ美川に住んではいるが、何らかの事情で出身町から他の町に転居した同級生に聞いても、やはり出身町やその台車に愛着を感じており、いずれは出身町に戻りたいと言っている。

 

 また、自分の出身町以外の台車を曳いていた同級生は、何か違和感を隠せない様子であり、そう指摘すると肯定している。

 

 これは同じ町の東西を転居しただけでも同様で、心は「元の組にある」と言わしめている(美川では同じ町でも東西に組が分かれ、その組単位で町会活動や台車曳行を行う)。

  

 このように、子どものころの在住した町や台車に愛着があるという証左は、枚挙に暇がない。

 

 なお、私が故郷を再訪後、私の出身町を見回すと、私の子どものころからずっと同じ町に在住しているというネイティブが少なくなった。

 

 これは私ほど遠く離れていないにしても、出身町から離れた者が抱く「我が町が一番」の郷愁を、多くの美川の人が持っているということではなかろうか。



№24 レジェンド「南町台車」

 私が小学生時代、既に書いてきたように、各町の台車は祭りの1週間ぐらい前になると、各町所定の場所に留め置かれた。そして、私を含めた子どもたちは台車の掃除や、金具の真鍮(しんちゅう)磨きに精を出した。

 

 そんな折、私は13台ある台車のうち、中町と南町の台車に飾る人形が同じ「蘭陵王」であることを不思議に思っていたので、そのことを上級生に質問したことがあった。 この質問に対する上級生の回答は、その昔、中町には東西2台の台車があり、2台は同じ中町だから人形も同じ「蘭陵王」を飾っていた。そのうち西組の台車を南町にやったから、中町と南町は同じ人形なのだというものであった。

 

 また、南町の子どもの中には、昔、南町は貧乏だったから、中町から台車をもらったと言う者もいた。

 

 その当時はそれ以上調べることもなく、そういった子ども同士の会話で、私はそうかもしれないとそのときは納得した。

 

 後年、私が我が故郷に再訪するようになって、子どものころのこの疑問を、我が故郷の図書館やルーツ交流館などに行って調べてみた。そうしたところ、ディテールで違うこともあるかもしれないが、概ね次のことがわかってきた。

 

 それは、中町が南町に台車でなく、どうやら人形を譲ったことが真相であるということである。

 

 何故なら、古来、南町が曳く台車がなかったということと、中町に2台の台車があったということはどの文献にもないし、また、南町の人形が「蘭陵王」になるまで、「浦島太郎や神武天皇など変遷し、他町よりやや見劣りがする」旨の記述が見られ、南町は台車でなく、見劣りしない人形を欲していたことが伺えるからである。

 

 人形を譲る経緯は、昭和9年7月の手取川の大洪水により、我が故郷も被害を蒙り、とくに南町が死者を出し、炊き出しをするほどの被害をうけた。その後、当時の中町のN氏をはじめとした旦那衆が集まり、翌昭和10年の中町台車の大改修に伴って、新しい人形を購入し、古い人形を南町に譲ることが決められたようである。

 

 この人形を「譲る」は、「有償」とする説と、「無償」とする説があるが、南町の洪水による被害を考えると、「無償」のほうが有力説ではないかと思う。

 

 なお、中町の人形「蘭陵王」の指(一部)が折れているのは、私が子どものときからであり、その後に人形を管理した人達のせいでないことを申し添えておきたい。



№25 よたんび

 故郷を再訪するようになってから、おかえり祭りの最中にひどい「よたんび」(酔っぱらい)になったことがある。

 

 その前に私のカミさんのことだが、私の36年ぶりのおかえり祭りの際に、私と一緒に我が故郷に来たが、祭りの2日間の様子を見て、翌年から2度と来なくなってしまった。

 

 なぜなら、彼女曰(いわ)く、「男だけが楽しいんじゃないの。それに、そばに行くとプーンと臭うくらい酒臭い酔っぱらいがいてイヤ。」と、呆れ返ってしまったからだ。

 

 おかえり祭りは男の祭りで、我が故郷の近隣の人は、こんな「だら(ばか)」な祭りをしている「美川には嫁に出すな」と言うくらいである。 我が故郷の文化を知らず育ってきた彼女にとって、このような男性上位で前時代的に映る光景を目の当たりにしたからだと思う。

 

 それから数年後、おかえり祭りが終わって自宅に帰り、手厚く遇してくれた我が故郷の女性たちのことに触れ、私が思わず「美川の女はイイなあ」とつぶやいたことがあった。これに対して、カミさんは「そんなにイイんなら、そういう人と結婚すればよかったじゃない。どうぞ、どうぞ。」と、しばらく口を聞いてもらえなかった(多分、我が家に飼いネコがいなかったら、会話の復活がなかったかもしれない)。

 

 さて、「よたんび」に話は戻って、何年か前、我が故郷を遠く離れた私でも、おかえり筋で4軒の家をはしごしたことがあった(その年、同級生の中には11軒から招待され、その全てに顔を出している者もいる)。

 

 訪問先のうち、最後の4軒目の家で、子どものころ隣の家だった母親世代に、40年以上の時を経て感動的な再会を果たした。それを見ていた同級生の中にはもらい泣きする者もいて、私は大いに痛飲した。 その頃、我が子と私の出身町の同級生は、還幸祭における台車の出発時間になっても来ない私を心配してくれ、2人で私が痛飲している家まで迎えに来てくれた。

 

 そして、我が子はだらしなく「よたんび」になった父親の手を引いて、迎えに同行してくれた同級生とともに、彼の自宅まで連れて行ってくれた。 私は還幸祭どころか、布団の敷いてある階上の部屋まで行くことができなかったらしく、翌朝の鳥のさえずりで目が覚めたとき、同級生宅の入口の近くのソファーにいた。

 

 私はこの顛末を我が子から聞き、「よたんび」が大嫌いなカミさんから大目玉をくうし、泊めてくれた同級生には申し訳ないし、翌年、我が故郷の者から「美川の飲み方を知らんわ」と言われるしで、自業自得だが、なさけなかった。

 

 なお、おかえり筋の家に招待された者は、昔から「清酒」を持参するのが通例だが、近年は「商品券」や「スミヤの叉焼」、「焼酎」などを持参する者もいる。また、同じ町内同士は、招待されたり、招待したりしていることから、何も持参しない者もいる。



№26 ちょっと下世話なこと

 近年、我が故郷には、観光ボランティアガイド「おかえりの会」という団体があり、旗を持ち、お揃いの黄色い服を着て、おかえり祭りを半日程度で案内している。

 

 このガイドの中には郷土史研究の方がおられて、祭りや神輿、台車などを詳細に語りながら案内してくれるらしい。 「おかえりの会」の祭り案内に申し込み、祭り見物を楽しむ参加者を見ると、ご婦人が多いようである。

 

 参加者の関心事は、ラッパ手や旗手などにより先導される神輿や、それに奉仕する青年団、13台ある「台車」(だいぐるま)の木工・漆芸・金工などが主だが、それ以外にもあるようである。

 

 それはちょっと下世話なことだが、祭りのご祝儀や、招待客への“お・も・て・な・し“、などに関することである。

 

 まず、台車の巡行の道すがら、各戸から集めるご祝儀について、あのご祝儀袋に一体いくら入っているかということが気になるようである。 気になる理由は13台の台車にご祝儀を渡すと、各戸は大層なカネがかかると心配していただいてのことらしい。

 

 ご祝儀について、私が知る範囲では5百円から5千円が入っており、そのほとんどが千円のようであり、5百円と5千円はごくごく稀である。(編集者の注記 近年は五百円も多くなっている)

 

 おかえり筋での“お・も・て・な・し”については、どんな料理が出るのかから、何軒も招待される人がいると聞くと、料理が食べ切れないだろうから、箸をつけなかった料理はどうなるかまでさまざまな疑問があるらしい。

 

 現在、料理について、仕出し料理店から宅配される料理はネットなどで調べられるので省略するが、おかえり筋の中には、その家の手料理やスミヤの叉焼などでもてなしてくれる家もあることを述べておきたい。

 

 そして、昔は、といっても私の子ども時代よりもっと昔だが、旅の人(招待客以外の人)にも酒肴を振る舞ったと言われている。 その当時の祭り料理には、招待客のそれと、招待客以外のそれがあったらしい。

 

 招待客のそれは今とそれほど変わらないと思われるが、招待客以外のそれは(身欠き)「にしん」、「煮しめ」、「べろべろ(えびす)」といわれ、その3点を中心とした肴に、日本酒が振る舞われたようである。

 

 私のように数少ないご招待先しかない者でも、次々に注がれる酒(ほぼビール)と、招待側や招待客同士の会話に夢中になり、料理は半分を食べられればよいほうであり、ほとんど食べなかった(食べられなかった)ということも珍しくない。同級生の中には10軒超の者もおり、こうなると料理に一箸つけるぐらいで、次の家ということになるから、大変贅沢な祭りである。 招待するほうは男も女もほぼ着物(女は老いも若きも加賀友禅)で“お・も・て・な・し“、ということになる。

 

 招待されるほうも、これに応えて、さすがに礼服は着ないが、着物かスーツ、ブレザー、ワンピースなど、披露宴に招待されるのと近い格好でということになる。

 

 なお、私が我が故郷の祭りを説明するときは、まず以下の2つの特徴を挙げてから説明することにしている。

1つは全国的に著しく組織率が低下した「青年団」が、我が故郷では立派に組織され、見事に活躍しており、青年団がこのように存在している主な理由はおかえり祭りがあるからであること。 もう1つは、上述のおかえり筋での豪勢、かつ招待客を第一に考えた“お・も・て・な・し”である。

 

 さて、残った料理だが、私は、残念ながら、箸をつけなかった料理のその後は見たことがないので、わからない。



№27 ALWAYS おかえり祭り64

 1964年、私が故郷で小学校低学年だった当時に、昨年、再度開催が決まった東京で、最初のオリンピックが開催された。 しかし、小学校低学年だったせいか東京オリンピックの記憶があまりなく、せいぜいで三宅(兄)が重量挙げで金メダル第1号のニュースをテレビで見た程度である。

 

 それより、私が楽しみにしていた「テレビまんが」(当時は「アニメーション」といわず、こう言った)の“ビックX(エックス)”が五輪中継のため中止でとてもガッカリした。

仕方なく大正通りにある古本屋さんへ行って、“ビックX”が掲載されている少年誌を借りて、オリンピック放映の時間帯に読んだことの方が覚えており、「東洋の魔女」は後年になって知ったことだった。  

 

 “ビックX”のことと同様に、この年のおかえり祭りのことはよく覚えている。というのは、詳細は後述するが、私が最も大好きな 「テレビまんが」の一つである“鉄人28号”の放送時間と、おかえり祭り初日の台車巡行とが重なったためである。  

 

 この年、私の小学生時代においては恒例であるが、学校から下校途中、北町で出身町の台車に遭遇すると、まず台車のそばで待たしていた母親にランドセルを預け、台車を曳いている西組の大人達に「乗しち!」と声を掛けて、真っ先に台車に乗り込むのである。  

 

 そして、日がな一日台車に乗っているのであるが、今より2週間弱遅い5月29日が開催日であるせいか少し暑かったようである。

 

 大正通りには、アイスキャンディーを売っている店があることを知っている私達子どもは、大正通り前に来ると、私達の父親でもある西組の大人達に「アイスくれんと帰るぞ」と脅すのである。

 

 その声のお陰か、「アイス」が乗っている子ども達に振る舞われるのであるが、私は「アイス」を食べるのが「しょま」(下手)で、台車上でアイスのしずくをこぼすことになる。

 

 さて、“鉄人28号”だが、この日の台車巡行も夕方6:00からの“鉄人”の放送時間に近づいてくると、当時の私は真剣に悩んだものだった。 何を悩んだかというと、このまま台車に乗っているか、それとも帰宅して“鉄人”を見るかである。

 

 当時、録画機器は我が故郷に影も形もなかったから、放送日を逃したら2度と見られないかもしれないという思いと、1年に1度しかない祭りを抜けるのはどうしても耐え難いという思いが交差して、じっと台車の上で、下にある道端を見ながら考えこみ、まるで「うつ病」を患っているかのようであったと思う。

 

 私のこの問題に対する決断は、夕方6:00の直前に下され、やはり1年1度の祭りに残るということであった。  

 

 後年、私は故郷に再訪するようになって、私が“鉄人28号”の絵をよく描いていたことを同級生から話題にされる。しかし、私にとっては“鉄人”だけでなく、“ビックX”もよく描いており、どちらかと言うと“ビックX”の方が自分としては得意であったと思うので、この話題が出ないのがちょっと不満である。

 

 


№28 シーズン・オフも祭り

 私が子どものころ、高浜の台車小屋は、今のように片側(南側)に13台すべての小屋が並んでおらず、高浜の北側に、今町、中町、家方組および神幸町の4台の小屋が、その反対側(南側)にその他9台の小屋が並んでいた。

 

 そして台車小屋の扉も今のようにきっちり閉された状態ではなく、子どもでも力いっぱい右の扉を押し、左の扉を引けば、子ども一人ぐらい通れる隙間が開いた。

 こうして私は、祭りのシーズン・オフに、我町の台車小屋の中に入り、薄暗い中、台車を見上げて、「早(は)よ祭り来んかな」と思ったものだった。

 

 このようなことをしたのは私だけかと思っていたら、後年、私が故郷に再訪するようになって、他の学年ではあるが、同じことをした者がいたことを知り、私と同じ「祭り好き」が同じ故郷にいたことをうれしく思った。

 

 なお、この「祭り好き」は私のような方法で台車小屋に入ったのではなく、台車小屋の扉の下が砂地なので、その砂を掻いて、その隙間から腹ばいで入ったようである。

 

 また、私が三輪車に乗っていたころ、三輪車を台車に見立てて、同じ町(筋)のみならず、隣の町(筋)の子ども達も集め、三輪車による台車行進をやったものである。

 

 そのときの行進の音は、台車から出る「ギー、ギー」ではなく、なぜか青年団の吹くラッパの「パンパカパンパン・・・」のメロディーなのである。 三輪車に乗った子ども達は、それぞれが口から「パンパカパンパン・・・」という擬音を発して、勇ましく行進していった。

 

 なぜこのメロディーになったかといえば、理屈ではなく、我が故郷で祭りの音といえば、青年団の吹くラッパの「パンパカパンパン・・・」だからである。

 

 なお、三輪車の行進順は、手作りのクジを各人が引き、その順番で行進した。そして疲れると、自分たちの小遣いで菓子屋から買った団子やアイスなどを食べながら三輪車上で休憩し、再び終点の藤塚神社まで行進した。

 

 私は休憩時に、このときのメンバーの一人が至福の笑い顔で言った「うめーもん食うて(美味いもの食べて)、好きな~ことして、幸せ者(もん)や」という言葉を忘れない。  こうして当時の我が故郷の子どもたちは、祭りのシーズン・オフでさえも、祭りとともにあった。



№29 故郷の味

 私の子どものころ、我が故郷(市街地)には銭湯が北町、新町、本町通り、浜町と末広町の間と少なくとも4つはあった。

 

 この当時、銭湯に行くと、親は「コーヒー牛乳」、私は「フルーツ牛乳」、しかも牛乳瓶に入ったものをよく飲んだものだった。

 

 後年、私が故郷に再訪後も、私が子どものころ本町湯だった美川温泉観光ホテルの湯につかった後は、当然のように牛乳瓶に入った「フルーツ牛乳」を飲んだ。普段はそんなものは一切飲まないくせにである。

 

 なぜそのような気分になるかは自分ではわからないし、我が子から見ると、「なんでそんなものを飲みたくなるのか」と不思議そうに見られた。

 

 今年のおかえり祭りでご招待にあずかった同級生宅では、豆腐(冷奴)にカラシが添えられていた。私は「銭湯とフルーツ牛乳」の組み合わせのように、「冷奴とカラシ」の組み合わせが理屈なく共感できた。

 

 我が故郷を離れてからの私は、いつの間にか「冷奴には生姜」になってしまっていたが、子どものころは「冷奴とカラシ」が「銭湯とフルーツ牛乳」のように、当たり前だったから共感できたのだと思う。

 

 組み合わせの問題ではないが、おかえり祭りで「えびす(別名べろべろ)」、「にしめ」、「笹寿司」、「こんかづめ(魚の糠漬け)」など故郷の味がよく出てくる。

 

 私が子どものころは、これらの中で「こんかづめ」以外は旨いと思ったことがなく、ほとんど食べなかった。

 

 子どもは甘い物に甘い飲み物が平気なように、子どもの舌は大人の舌と違うようであり、私は故郷に再訪するようになってから、これらの故郷の味を堪能できるような舌を持つようになったことに気が付いた。

 

 そんな舌を持つようになった私に対して同級生が、白山市の果物・米・菓子・餅・こんかづめなど四季折々の旬の故郷の味を、年3回に分けて届ける「ふるさと便」があることを教えてくれた。

 

 祭り終了後、早速この「ふるさと便」に申し込んだので、今から故郷の味が届くことを私と私の家族は楽しみにしている。

 

 さて、我が故郷で唯一残っていた前述の銭湯(美川温泉観光ホテル)は、何年か前に廃業し、今年はとうとうその敷地(本町通り)にあった建物が取り壊されて更地となり、その更地の近くで、少し寂しい夕方から夜にかけての台車前での休憩(小宴会)を行った。



№30 三つ子の魂百までも

 私がおかえり祭りで故郷に再訪するには、故郷を離れてから実に36年の年月を要した。36年以上の時を超え、おかえり祭りの日に突然現れた私は、同級生にとってまるでタイムマシーンに乗って自分の前にやってきたようなものだったと思う。

 

 ただお互い様であるが風貌は小学生のときとは全く違う中高年のものになっていたが、しばらく見つめ合うと、どちらともなく「ああ」という声がもれ、お互いの昔の面影を思い出すことになった。

 

 昔の面影は必ず残っているもので、遠い記憶の面影と今の面影がマッチングすることになる。そして、気持ち悪いことこの上もないが、本当に懐かしく、おやじ同士が抱き合ったり、手を取り合ったりすることもある。

 

 同級生と交際が再開するにつけ、「三つ子の魂百までも」と思うことが幾度ともある。私の場合、故郷に残ってよく会っている同級生同士とは違い、36年以上の時を経て小学生からワープして同級生と会っているので、会った同級生のイメージが小学校のそれであるから、余計そう思うのかもしれない。

 

 昔の祭り好きは今も祭り好きであり、お調子者はお調子者であるし、きかん気な者はきかん気である。

 

 ただ、例外も一部あり、あんな弱虫だった同級生がたくましくなっていたり、おとなしい子がよく笑っていたりすると、私が見抜けなかったこんな面もあったかと思う。 また、三つ子の魂とは違うが、女子は中高年になっても、キレイな子は相変わらずキレイであるが、20代前半のころは特にキレイだったと周りから言われても、そのころ見ていないので、「失敗した」と心の中でつぶやくだけである。

 

 そういう私も故郷に再訪するまでは、私がそうであったように、変われと言われても本人がそういう気にならない限り変わることがないとわかっていても、勉強しない我が子に「勉強しろ」と、昔、私が母親に言われたように言っていた。

 

 しかし、私は我が子の前で、同級生から私が子どものころ、いかに勉強をしない子だったかという実例を言われてから、全く「勉強しろ」と言っていない。いや言えないことになってしまい、自分の背中を見せるしかなくなってしまった。

 

 ただ、これは私や我が子にとって正解だったようで、父親の背中を見て、勉強とは違うことだが、我が故郷の祭りは大好きになり、その付随効果として、嫌いなイカは我が故郷で出されるイカなら食べるようになってくれた。

 

 これが我が子の三つ子の魂になったようで、今、私がとてもうれしく思っていることである。



№31 伝統

 私が子どものころ、私は判で押したように夜9時に就寝して翌朝7時に起床と、同級生から教えてもらった子どもの理想的な睡眠時間といわれる10時間をほぼ毎日確保していた。

 

 そういった私でも小学校高学年になると、祭り初日は「よんめ」(宵宮)からの興奮冷めやらぬまま早起きして、藤塚神社前での青年団による神輿のお発ちを見たものだった。

 

 故郷を再び訪れるようになってから、私はほぼ毎年、子どものころと同様に、祭り初日の早朝に藤塚神社へ行き神輿のお発ちを見ている。

 

 私は子どものころ、人と違ったところに着目するらしく、青年団の「白」といえば、白襷や白足袋、鉢巻よりも紋付きの下に襦袢代わりに着る「丸首の白い長袖Tシャツ」が印象的であった。

 

 また、青年団もさることながら、神輿の脚を木槌と縄で取り付ける消防団の姿を鮮明に覚えている。

 

 これら一つ一つが美川の伝統として、私が知っている限りでも50年近く受け継がれてきたことになる。

 

 ただ、時の流れで青年団の吹くラッパは口の部分が着脱できるものになったし、消防団の被る帽子は作業帽からアポロキャップに変わってしまった。

 

 さらに、最も変わったと思うのは消防団が着ている制服のネームが「白山市北消防団美川分団」と「白山市」がついたことである。

 

 なお、子どものとき、神輿のお発ちを見た後の私といえば、石立屋(正確には「石立美石堂」というらしい)を通って一旦自宅に戻り、登校することになる。

 

 当時の石立屋では酒まんじゅうなどの菓子だけでなく、夏になると「氷みず」(かき氷)や「ミルクセーキ」が店内で食べることができ(出前もあった)、それらがもうすぐ食べられるなと思いながら自宅に戻ったことを覚えている。

 

 とくに旧美川大橋から見る夏の花火のときに食べる氷みず(イチゴ味)は、とても楽しみにしていたものだった。

 

 

№32 落葉帰根

 最近、同級生から、長年故郷から離れていたのに、何故、おかえり祭りに再訪するようになったのかとよく聞かれる。

 

 この回答は今まで披露してきた最初のメッセージや、その後のメッセージの随所で述べてきたことであり重複する箇所もあるが、改めて述べてみたい。

 

 故郷を離れた者は、いずれはニ通りに分かれ、それは「落葉帰根」と「落葉成根」に分かれるらしい。

 

 「落葉帰根」は、樹の葉はいずれ地に落ち、根に帰ること(=落ち着く先は故郷)。

 

 「落葉成根」は、故郷から離れた地で生きていくこと。であるそうだ。 余談だが、私が大学生のころ、(日本国費による)中国人留学生が四字成句をよく知っているので、「さすが国費留学生。日本語をよく勉強していますね。」と言ったことがあった。

 

 これに対して、この留学生は、四字成句のほとんどは中国のものであり、知っていることは当たり前であることと、上述の四字成句を教えてもらった。 さて、私の思いは望郷の念であり、我が故郷に言い知れぬ安らぎを覚えるという前者の「落葉帰根」である。

 

 この「落葉帰根」の言葉は、5~6年ぐらい前に我が故郷かつ出身町(筋)在住の「竹馬の友」へメールで送っている。  

 

 私は我が故郷に生まれ、我が故郷で12年間育った事実がある。そして、子どもの12年と、大人の12年は故郷というものが体に染み込む深さで段違いであることは、今までのメーセージの中で述べてきた。  

 

 私は、おかえり祭りに我が故郷が凝縮していると思っており、私の心は、このおかえり祭りに具現される我が故郷にあるが、様々な事情により私の体は東京にある。しかし、この祭りの期間中のみ、離れ離れになっていた私の心と体が一体になることができる。

 

 と、つらつらと、私が我が故郷を再訪した理由を述べてきたが、それより、ある年のある同級生との再会が、私の再訪の理由の一端に表していると思う。

 

 それは、おかえり筋に当たる同級生宅へ招待されたときのことであり、私と同様に町外に出た同級生が酒のせいもあると思うが、久しぶりに会った私の顔を見ながら、以心伝心、「わしも美川を出た者(もん)やから、お前の気持ちはよくわかるわいや」と言って、大の男がポロポロ大粒の涙を流しながら、しっかりと私の手を握ってきたことである。



№33 台車町外へ

 町誌などによれば、昭和57年10月に、北町と西新町の台車が美川から初めて出て、金沢で開催された「石川の観光と物産まつり」に展示されたことがあった。いや正確には「大車」1台と「台車」1台というべきだろう。

 

 「だいぐるま」に当てる漢字はいくつかあるが、ここでは簡単に「大車」のみ説明しておきたい。北町は「台車」ではなく、「大車」と表記しており、これは昭和12年の大修理の記録や人形を収納している箱に「大車」と書いてあったことを理由としているらしい。

 

 さて、私が現在住んでいる東京では、毎年1月になると、東京ドームで「ふるさと祭り東京」が開催され、全国の祭り見物や体験などができる。

 

 石川県の祭りも参加しており、能登の山車やキリコが展示され、ショー・タイムになると、本番の祭りと同じく、揃いの半纏を着た有志により、お祭り広場において曳き回されたり、担がれたりしている。

 

 このような様子を見るにつけ、私は台車を、我が故郷在住者はもちろん、首都圏在住の我が故郷出身者らとともに、この東京で見てみたいし、お揃いの紋付・袴で曳いてみたい衝動にかられる。

 そして、我が故郷の祭りが全国的に認知されれば、この上もない喜びである。

 

 しかし、このためにはいくつか超えなければならない問題があり、その一つが台車を解体の上、搬送に耐えられるようパッキングし、かつ東京まで搬送し、組立なければならないということである。

 

 明治期ごろまで、台車は祭りの度に組み立てられ、解体されて所定の箱に収められ、浜小屋に格納されていたようであるから、上述のことは十分可能なことであると思う。

 

 ただ、祇園祭の山鉾のように毎年、解体・組立が行われていない現在のおかえり祭りの台車において、その熟練者がいないがために、解体・組立により台車に損傷を与えないか心配である。

 

 私は故郷を遠く離れた東京ドームの「ふるさと祭り東京」で、香箱ガニ丼(500円)を食べながら、このようなことを考え、祭りのシーズン・オフに、おかえり祭りのことで至福になっている。



№34 子の面倒は地域ぐるみで(平成26年7月21日)

 私の家庭は両親が共稼ぎだったので、幼いころは、両親が働きに行っている間、他人ではあるものの、「ばあば(ばあちゃん)」がいる近隣の家に預けられた。

 

 ご存知のように北陸は共稼ぎ率が高く、また、当時の我が故郷でも同様だったようであるから、私の周囲の同世代の子どもは、サラリーマン家庭のみならず、自営業でも両親が昼間仕事をしていれば、「ばあば」のいる近隣の家に預けられた者は多かった。

 

 当時を振り返ると、私の母親や我が故郷の母親世代は本当に働き者で、子育ては地域に助けられながらも、仕事・家事などを十二分にこなしている人は多かった。

 

 昼間は、父親と同様に働き、仕事が終わった後は買い物や夕飯の用意をし、家族に食事を食べさせた後はその片付けや布団を敷くことなどが待っていた。

 

 その間、父親は何をするかといえば、銭湯に行き、晩酌をしながら夕飯を食べ、その後はテレビを見て就寝までくつろぐといったことが日常で、このようなことは、我が家に限らず、他の家でも似たり寄ったりのことだったと思う。

 

 そんなある日、小学生の私が見かねて、母親の手伝いをしようとしたことがあったが、母親の「『めろ(女)』のくさったみたいなことをするがんね(してはダメだ)」という一喝で頓挫した。

 

 小学校時代、私は、下校後、当時は当たり前だった玄関に鍵のかかっていない無人の我が家に帰り、ランドセルを放り投げ、「飯台(ちゃぶ台)」に置いてあった小遣いをポケットに入れると、すかさず両親が帰って来るまで遊びに出かけた。 低学年の間は、「へのこっぱ」といって、結果や勝敗などに影響しないノーカン(ノーカウント)での参加によって遊びのルールを教えてもらうなど、上級生から色々面倒を見てもらった。

 

 おかえり祭りにおいても、台車では、最上級生を頭に上級生が下級生を仕切ると同時に、下級生の面倒を見ており、青年団同様に、子どもなりの「自由と自治」があった。

 

 このように、当然のことながら当時の我が故郷は、今話題となっている待機児童といった概念はないし、子の面倒は地域ぐるみで見ているといった感があった。

 

 余談だが、私が子ども時代は小6(男児)までが台車に乗れたが、時代を遡れば、児童数が多く、小4までであった、 また、大人の曳き手は子どものいる者が中心であり、今と違い、子どもがいないと曳き手に加わりにくかったと思う。

 

 さて、祭り当日、町内を巡行する台車上にいた私は、私が幼いころに預かってもらった家の前を通過する際に、その家の「ばあば」が、台車に向かって「ごもってね」、「ごもってね」・・・と繰り返し拝んでいる姿を見ると、私が拝まれているようで面映ゆかった。



№35 戦後の習慣(平成26年7月27日)

 私の子ども時代、我が家から半径100m余りの間に、電気屋、味噌屋、菓子屋、洋品店、牛乳店、文具・書店、履物屋、傘屋、陶器店、銭湯、酒屋、こんかづめ屋、饅頭屋、印判店 印刷屋、家具店、魚屋、写真館、呉服店、割烹料理店、床屋、そろばん塾などに郵便局、公民館まであった。

 

 そして、これに加え、医院、歯科医院、薬局の医療・保健関係施設・店舗もあり、ほぼこの中で日常の用が足り、利便性が高い居住環境であった。

 

 ただ、食料品は大正通りまで買い出しに行かねばならず、「さいだや」などのスーパーで、私は買い物のついでに買ってもらえるお菓子のために、勤め帰りの母親の買い物についていくこともままあった。

 

 当時の大正通りは、和波町にあった福田染色からの勤め帰りに、夕食の買い物をするおばさんたちも加わって、夕方は結構賑わっていた。

 

 私はこの大正通りの商店の中でも、店名は忘れたが、「さいだや」の対面付近にあった、今はなき肉屋で揚げたばかりの熱々のコロッケが大好きで、夕食までの小腹をこれで満たすことが度々あった。

 

 私は今日まで、このコロッケ以上の美味いコロッケを食べたことはなく、テーク・アウトで冷めないうちに道々歩きながら食べるから、ソースなどはつけない。いやソースでこのコロッケ本来の美味さが損なわれてしまう。

 余談だが、このときのコロッケにソースをつけない習慣は、今でも続いている。

 

 さて、今は全国各地、どこでも見られる道々歩きながら食べることを、当時、私の小学校の担任はよくは思っていなかったし、実際、我が故郷の大人もよくは思っていない人がかなりいた。

 

 この理由は戦前の日本は道々歩きながら食べる習慣はなく、戦後、アメリカの習慣が日本に入ってきて行われたことから、日本の美徳を損なうものとの考えがあったようである。

 

 当時のおかえり祭りで、小休止した台車を離れた私は付近の露店で、小腹を満たすために、たこ焼きや焼きまんじゅう(今川焼き)を買い食いしたことがあったが、台車に帰って座って食べることはせず、道々歩きながら食べた。

 

 そうしていたところ、巡回に来ていたこの担任に見つかり、たしらめられたことがあった。

 

 今、おかえり祭りでは、老若男女、道々歩きながら食べることは当然どころか必然と言ってもいいくらいになっている。



№36 掘り抜き井戸(平成26年8月3日)

 我が故郷の人の中には、覚えていらっしゃる方もおられると思うが、私の子ども時代、石立屋から藤塚神社へ、さらに北陸線の線路方向へ下ると、右手(西側)に明翫組の砂利砕石場(現在のルーツ交流館)、そして、今はもうないが、左手(東側)に小屋付きの掘り抜き井戸があった。

 

 藤塚神社またはその近隣で遊んでいた私は、喉が渇くと、よくこの掘り抜きに水を飲みに行ったものだった。

 

 たまには、「渡辺のジュースの素」(粉末ジュース)を持参し、ビニール袋にこのジュースの素と掘り抜きの水を混ぜて飲んだ。

 

 夏場には、掘り抜きから湧き出る冷めたい水(今は「白山からの伏流水」というらしい)を飲むと、生き返る心地がした。 掘り抜きは、夏場も冬場も水温が一定らしく、夏場でもこの掘り抜きからの湧出口に手を当てていると、手が痛くなるほどの冷たさだった。

 

 冷蔵庫や洗濯機が、我が故郷の全家庭に普及していない当時、掘り抜きの水槽の中にはスイカを冷やしたり、水槽の近くで洗濯板により洗濯をしている人もいた。

 

 さて、当時の我が故郷でも、多くの家にネズミが出没し、家屋や家具などがかじられるといった被害に頭を悩ませていた。

 

 各家庭では、捕獲器をしかけ、捕獲したネズミを処分し、廃棄していたが、この捕獲したネズミを処分する役目は、我が家では私であり、何とも嫌な役目であった。処分の方法は、ネズミの入った捕獲器を、この掘り抜きの湧出口から最も離れた水槽に沈めて行った。

 

 ところで、おかえり祭だが、私はこのネズミの被害が台車に及んでいないか、祭り前に台車の外部はもちろん、台車の胴(鏡板)裏まで覗いて調べたことがあった。

 

 当時の台車小屋は以前述べたように子どもなら入れるような出入口で、ネズミが出入りすることは容易だったと思うし、祭り前に台車が留め置かれた横の「えんぞ(蓋なしの側溝)」にはドブネズミが走り回っていたが、台車に不思議とネズミにかじられた形跡はなかった。

 

 これは神様の依代たる台車に、これまた神様の使いであるネズミが遠慮して、悪さをすることがなかったと当時は思っていた。



№37 シンヤ写真館(平成26年8月3日)

 私のアルバムを見ると、子ども時代のものに「シンヤ写真館」により撮影された写真が幾枚かある。 それは当時、小学校のそばにあった「シンヤ写真館」で撮影されたものもあるし、出張により撮影されたものもある。

 

 私が子どもころから今までずっと持ち続けているものは、これらの写真と、小学校の卒業証書、そして見たくもないが、通知表ぐらいである。

 

 今、「シンヤ写真館」により撮影された写真を見ると、他のスナップ写真に比べて、退色は少ないし、被写体はどれも活き活きとした表情で撮影されており、さすがプロ、「いい仕事してますね」と言いたくなる。

 

 その中の1枚に、私が美川保育園当時のものがあり、それは学芸会「こぶとりじいさん」を演じた後の記念写真である。

 この写真は、おそらく「シンヤ写真館」の先代により美川保育園で撮影されたものと思われる。

 

 私たち「こぶとりじいさん」を演じたグループは、昔のストロボ付きの写真機の前に並んだ。 そして、この先代が「ストロボ」の部分を指差し、「皆さん、ここから鳩が出ますから、よく見てください」と言うので、いたいけだった私はじっとそこを凝視した。

 

 しかし、撮影が終わり、私以外の園児が母親と一緒に撮影場所を去っても、私は鳩が出てくることを固く信じて動かなかったが、さすがに、この先代がストロボを片付け始めた時、事態を理解した。

 

 私は「こぶとりじいさん」で主役である「いいおじいさん」から「こぶ」を取る鬼の役柄だったが、このとき、主役を演じたのは、私の同級生たる今の美川小学校の校長である。

 

 それから半世紀近くの歳月が流れ、我が出身町の台車が改修され、そのお披露目巡行をした後、「シンヤ写真館」の今の館主により、私も含めて高浜で記念撮影を行った。

 

 現在、「シンヤ写真館」は私の出身町に移転したものの、先代、今の館主、そしてその子と三代にわたって、おかえり祭りを含めた我が故郷と、その人々を撮影し続け、いわゆる我が故郷の歴史の一つが「シンヤ写真館」にあると言っても過言ではあるまい。



№38 娘を持つ父親(平成26年8月9日)

 ここ最近、我が故郷在住の同級生の娘が何人か良縁に恵まれている。しかし、娘を嫁に出す父親の心境は複雑なものがあるらしい。私も娘がいるので、我が娘に良縁があれば、いずれは彼らのような思いを経験することになる。

 

 昨年のおかえり筋での宴席において、娘を嫁に出したばかりの同級生が語るには、結婚を承諾してもらうために自宅に訪れた求婚者に対し、この同級生は彼の顔を見なかったそうである。

 

 そういえば、私もカミさんとの結婚の承諾を受けに、その両親のもとに行った際、カミさんの父親は私の顔を見ず、横を向きっぱなしであった。

 

 後年、私は、岳父となったカミさんの父親に対し、その理由を聞いてみたら、私がよく喋るので、「つば」がかからないよう横を向いていたそうである。

 

 父親は母親とともに年頃になるまで、娘を手塩にかけて育ててきたわけであるが、求婚者はそれまで何もしておらず、どこの馬の骨ともわからないのであるから、当然といえば当然である。

 

 私が10代後半のとき、題名を忘れたが、「学生時代」で著名な久米正雄が書いた短編小説を読んだ。 その短編には、娘をもらいに来た若者がその娘の父親に対して言うセリフが、確か「おとうさん。あなたも私と同じことを、かつてしたではないですか。」といった内容だったと思う。

 

 世の中は順送りだと思うし、若年だった当時の私は、このセリフに共感した。しかし、誠に勝手な話だが、今の私には共感し難い部分がある。

 

 ところで、おかえり筋に当たった家々は、おかえり筋の神輿渡御のため、我が故郷在住か否かにかかわらず、男の親戚などへ総動員をかけて、その担ぎ手の人数確保を行う。

 

 冒頭に述べた、昨年娘を嫁に出したばかり同級生の家は今年のおかえり筋に当たり、息子はもちろん、娘婿も神輿渡御の担ぎ手に加わることになった。

 

 そして、この同級生の家の玄関から、彼の息子と娘婿が一緒に紋付・袴の上に白襷を結んだ姿で、義兄弟が仲良くおかえり筋西の集合場所に向かうのを見た時、私は思ったことがある。

 

 それは、義理の親子と兄弟の違いはあれ、私と一緒に将来の娘婿がおかえり祭りに参加してくれるなら、喜んでとまではいかないが、私の娘を持つ父親としての複雑な思いは少し緩和されるだろうということである。


 

№39 みかわ屋食堂(平成26年8月9日)

 以前、私の子ども時代の我が家は、我が家から半径100m余りの間に、様々な商店や施設などがあり、利便性が高い居住環境であったと述べた。  

 

 そして、食料品は大正通りまで買い出しに行かねばならないことも述べたが、もう一つ不満を言えば、割烹料理店はあったが、私達子どもには縁がない高級店であり、「みかわ屋食堂」のような大衆の飲食店がなかったことである。

 

 当時も今の北町東と本町通りの交差する角地に「みかわ屋食堂」はあった。そして、今もそうだと思うが、「和・洋・中」何でもありのメニューの店であり、何を注文し、食してもハズレはなく、美味かった。

 

 だから私が長く我が故郷を離れた間も、我が故郷の人々に支持され、お店を継続できたのだと思う。 私の子ども時代、私のおぼろげな記憶によると、「みかわ屋食堂」は多分、私の母親より年長のおばさんと、その娘さんを中心に接客を行っていたと思う。 当時も出前があり、私の大好きなカレーライス、チャーハンなど、「みかわ屋食堂」の娘さん(私からすればかなり年長のお姉さん)が出前を持ってきてくれた。

 

 大晦日になると、当時の我が故郷には日本そばを提供する店舗はなく、我が家の年越しそばは、「みかわ屋食堂」で食べる中華そば(=ラーメン)だった。

 

 後年、おかえり祭りのために、我が故郷へ再訪した際、この「みかわ屋食堂」の味が懐かしく、お店に入って食べようと思ったが、残念ながら、祭りの2日間はもちろん、「よんめ」の時も休店であった。

 

 ところで、今も昔もおかえり祭り初日、北町東筋の台車巡行の途中で、午前中のメイン・イベントである青年団の神輿の駅前渡御となる。

 

 今の私は、曳いている我が出身町の台車から離れ、朝陽を浴びた凛々しく、雄々しく、勇躍する青年の姿から、パワーをもらうために駅前に行く。

 

 そして、パワーを充填し終わった私は、「みかわ屋食堂」の店舗と看板を見ながら我が出身町の台車に戻るが、その時いつも思うことは、いつか「みかわ屋食堂」で我が故郷の味を満喫したいということである。



№40 御酒(ごんしゅう)最中(平成26年8月24日)

 私が子どものころから我が故郷は和菓子を扱う店が今より多く、その中でも、私の出身町の東には、キレのある甘さで「きんつば」が大層美味い、いや絶品の店があった。

 

 当時の私は、自分の出身町の西にある石立屋の「酒まんじゅう」とともに、我が故郷の誇る和菓子における東西の両横綱と思っていた。

 

 後年、私が故郷を再訪した際には、この「きんつば」の店はなくなっており、私がその屋号もすっかり忘れていたので、同町の同級生に確認したところ、その店はどうやら「きんや」という屋号であることがわかった。

 

 さて、おかえり祭だが、この祭りは和菓子と縁がある祭りであり、おかえり筋の宴席に呼ばれた招待客は、神輿が印刷してある包装紙に包まれた「御酒最中」をお土産として渡されることがよくある。

 

 余談だが、「御酒最中」は、我が故郷に「御酒」という民謡があり、これから由来するといわれている。この「御酒」はおかえり筋の宴席で唄われるそうであるが、残念ながら、私は自分が呼ばれた宴席で唄われるのを聞いたことがない。

 

 私は我が故郷に再訪する前は、「御酒最中」に限らず、最中という和菓子について、そのパサつく食感が苦手で、子どものときはもちろん、大人になってもほとんど食べた経験がない。

 

 そういうわけで、「御酒最中」を食べたのは我が故郷にいた子ども時代ではなく、我が故郷を再訪するようになってから2年目の祭りの初日で、家方組台車の小休止にたまたま私が居合わせたところに、「御酒最中」が振る舞われたときである。 この最中は抹茶餡とゆず餡の2種類の味があるらしいが、私たちが食べたのは「ゆず」の方で、あまり甘くなく、“もっちり”としたフルーティーな餡の食感がよく、私も家方組の若い曳き手も「美味い」の合唱だったし、不思議とビールにもマッチングした。

 

 それから、毎年ではないが、私はこの最中のゆず餡のものを買って、自宅のある東京への土産とすることがある。 ところで、「御酒最中」を製造・販売しているのは本町通りに面した「フタマサ御酒堂」という店だが、この店で同じく製造・販売している「茶通」、「黒羊羹」、「かすみ」の3本セットを、何年か前に私の出身町の同級生から贈ってもらったことがあった。

 

 私と違い、口の肥えた私のカミさんは、この中の「黒羊羹」について、東京の有名高級店のものより「おいしい」と言っていたことを付け加えておきたい。


 

№41 すわ!一大事!(平成26年8月24日)

 私は故郷を再訪するようになってから、おかえり祭りの初日の夕方から夜にかけて、本町通りに一列に並んだ台車前で行われる「小宴会」に、雨やおかえり筋の宴席に呼ばれるなどしない限り参加している。

 

 ところで、私の子どものころ、この本町通りにおける「小宴会」を私の出身町は行っておらず、各曳き手は台車の番をする人を残して、それぞれの自宅に一旦帰って夕食を食べることになっていた記憶がある。

 

 今年は私の出身町の「小宴会」が始まる前に、曳き手の中に同級生3人がいる某町の「小宴会」におじゃました。 この「小宴会」は「ござ」を各台車前の道路上に敷き、その上に酒や料理を並べて行うのだが、この敷いた「ござ」で、“すわ!一大事!”となりそうなことが起こった。

 

 毎年、青年団は、この時間帯に休憩している大正通りから前年度団長(場合によっては祭礼委員長)の自宅に集まった前年度OBを迎えるため、旗手・ラッパ手が先導し、おごそかな行進をすることになっている。

 

 今年の場合、前年度団長が和波町だったので、和波町にある前年度団長宅へ行くには、大正通りから各台車が一列に並ぶ本町通りを経由して行進する必要があったようである。

 

 しかし、私のおじゃました某町の台車前の「ござ」は、他の台車のそれとは違い、本町通りの車道部分を完全に塞ぐ形で敷かれており、これでは青年団の行進はできない。 そこで、青年団から某町へ急遽「道を空けてくれるよう」に要請があったが、某町の町衆の中には、「絶対どかん」と頑なにこれを拒む者がいて困った状況になった。

 

 このどかない理由は、毎年、各台車の多くはこの時間帯に本町通りの車道部分に「ござ」を敷いて「小宴会」をすることが慣例となっていることから、このような事態になることは事前にわかることなのに、青年団から前もっての要請がないこと、即ち、“筋を通していない”ということである。

 

 そうこうしているうちに、青年団の行進は私もいる某町の敷いた「ござ」の直前まで進み、とうとう青年団の行進が足踏み状態となった。

 

 私は日頃、家庭では(職場でも)体が動かず、口ばっかり動いて他人を動かすことを揶揄され、カミさんから「口(くち)リモコン」と言われている。

 

 しかし、私はこのときばかりは口と同時に体も動き、この言動に内心賛同してくれた同級生を含めた町衆たちと一緒に、「ござ」上の酒や料理を隅によけ、他の町衆にも隅に移動してもらった上で「ござ」をたたみ、なんとか青年団が行進できる幅員を確保した。

 

 その後、私は青年団がこの往路と、前年度OBとともに行進する復路も、幅員を確保した某町の台車前を行進することを確認して、祭りが何事もなく進行できたことにほっとした。

 

 なお、この前年度OBを迎えに行っている間、大正通りで残った青年団員がこの帰りを待たなければならないが、昔から、残った「旗手」はその間の座を持たせるために、日頃磨いた芸を披露することになっている。

 

 このことは、「旗手」になる者が「ラッパ手」や「担ぎ手」などをリードする“きかん気”とともに、芸の幾つかを披露できる“ひょうきんさ”を併せ持つことがその資質として要求されていることを示していると思う。



№42 N氏のこと(平成26年8月24日)

 私が我が故郷に再訪後、おかえり祭りに関し、私が子ども時代に疑問に思ったことなどを調べるために、町の図書館やルーツ交流館などに行ったことはすでに述べた。

 

 しかし、文献ではいかんともし難いことが多々あり、その際、色々ご教示いただいたのが、もう故人となられたN氏だった。

 

 実は、私が我が故郷に再訪する前に、まだ美川町であったころの役場へ色々問い合わせをしている。このとき、ある役場の職員から丁重なお手紙やおかえり祭りのパンフレットなどを自宅へ郵送してもらったり、N氏と面識を持つに至る契機まで作っていただいた。N氏はまさに我が故郷とおかえり祭りのウォーキングディクショナリー(生き字引)と言うにふさわしい方であった。

 

 実はすでに述べたメッセージのうち、「新町だけが台車2台」などはN氏からご教示いただいた話をもとにしている。 N氏が小学生のころは、私が小学生のころよりも、お互いの母校である美川小学校の児童数が相当多かったらしい。

 

 そんな子どもが多く賑やかな時代に、おかえり祭りで「船方組台車」に乗っていた話をされているときは、N氏は弁舌さわやかな方だが、そのさわやかさがより一層際立っていた。

 

 しかし、その反面、今の我が母校の児童数の減少はN氏自身もだが、我が故郷にとって大変残念であり、さみしいと嘆いておられた。

 

 なお、余談だが、今、祭りのパンフレットなどに「船職組」と表記されているN氏も乗っておられた台車は、私の子どものころ、私や同級生たちの間では「船職組」とは言わず、上述した「船方組」と言った。

 

 その後、私はN氏と面識を得てから、わずかな歳月で故人となられたことを人づてに知ったとき、昔、タレントのオスマン・サンコンさんがテレビ番組で言っていたことを思い出した。

 

 それは、彼の出身国であるギニアの諺(ことわざ)にある「お年寄りが亡くなることは 大きな図書館が一つ燃えてなくなることと同じである」で、そのことをこのときほど痛感したことはなかった。



№43 紋付・袴(平成26年9月4日)  

 おかえり祭りにとって、酒屋と呉服屋は切っても切れない関係がある。酒のことは今まで多々述べてきたので、今回は紋付・袴のことを述べてみたい。

 

 余談だが、呉服は、三国志の魏・呉・蜀の三国のうち、呉の国から日本に伝わったことから、この名がついたものらしい。

 

 私が故郷に再訪する際、子ども時代の記憶から台車・神輿の曳き手・担ぎ手は祭り用の紋付・袴を着用するということは知っていたが、祭り用の紋付・袴は東京ではなかなか手に入らないので、最初は一張羅の正絹の紋付・袴を持参して参加した。

 しかし、これで祭りに参加するのはもったいないので、次から祭り用の紋付・袴で参加することにした。

 

 祭り用の紋付・袴は紋付が木綿、袴がウール製となっており、これを出身町の同級生が勧めてくれた「もと江呉服店」で買い求めることになった。

 

 この店は私が子どもの頃からある店で、実は、私の子ども時代に一つ思い出がある。それは、当時の祭り初日の朝、私の父親が2年に1度巡ってくる台車巡行に参加しようと、紋付・袴を着たものの、2年前に仕舞ったはずの足袋が家のどこを探しても見つからないことがあった。

 

 前もって用意しておけばよさそうなものだが、祭りに行く直前となって判明したのでは致し方ない。

 そこで、私の父母はビジネス用の黒靴下を代用することも検討したようだが、やはり足袋を履かないとみっともないという話になり、母親が「もと江さん(もと江呉服店)」に行って聞いてみるということになった。

 

 早朝のため店が閉まっている確率が高く、無駄足になるかもしれないと思われたが、私が小学校から下校し、台車に乗った時、父親はちゃんと下駄の上に足袋を履いていたことから、おそらく「もと江呉服店」から買えたらしい。

 

 これと同様なことが今年の祭りで、私の出身町台車の曳き手でも起こっており、やはり早朝に「もと江呉服店」から足袋を買って台車巡行に参加している方がいた。 さて、この店は店主ご夫婦で営んでいる店だが、私は祭り用の紋付・袴を買うにあたって、「もと江呉服店」と東京の我が家は遠隔地であることから、紋付に入れる家紋や、袴の色・柄、それらのサイズなどの意思疎通は電話でということになった。

 

 そんなわけで、祭り前日に「もと江呉服店」に行くまで、果たして電話で伝えたとおりの紋付・袴が用意されているか少々不安があったが、それは杞憂であった。

 

 それにこの店に行った際、店主ご夫婦との会話は祭り用の紋付・袴の素材や扱い方から、今の青年団の気質、私の同級生たちの様子まで及び、さらに私が祭りで頭にまく鉢巻の有無の心配までしてくれた。

 

 この会話は私にとって非常に楽しく、好感が持てるもので、買い物をしてこのような楽しい会話をしたのは久しぶりだった。そして、袋物をサービスしていただいた上に、祭り初日の朝に着付けまでしてもらった。

 

 以前のメッセージに、「北田履物店」で桐の下駄を買った際、250円まけ(値引き)してくれたことを述べたが、「もと江呉服店」と「北田履物店」のことから、我が故郷の商店は昭和を彷彿とさせる、“気は心”も含めたサービスや、先述した早朝でも足袋を売ってくれる臨機応変な対応、店と客の気さくな会話などが今でもあることを経験し、見聞きさせていただいた。

 

 ところで、台車・神輿の曳き手・担ぎ手は袴の裾が道路に擦れたり、足で踏みつけることがままあるので、袴の腰と裾近くの部分に紐を4本(左右2組)縫い付けて、その2組の紐を結んで袴をたくし上げている。 この紐が最初から付いた袴が売っているのかと思って、出身町台車の曳き手の1人に聞いたら、自宅で縫い付けたということであった。

 

 なお、私は、洗濯バサミ(木製)で袴の裾の部分2箇所(左右)を腰の辺りに、挟んでたくし上げている。

 

 最後に長くなったが、祭りの2日間着まわした私の祭り用の紋付・袴の後始末について述べたい。

 

 東京(少なくとも私の家の近く)には祭り用の紋付・袴のクリーニングはないと思われることから、出身町の同級生に頼んで、祭り用の紋付・袴のクリーニングを、我が故郷のクリーニング店に出してもらっている。

 

 そして、クリーニングが仕上がったら、この同級生から宅配便で東京の我が家へ送ってもらうのである。 持つべきものは友であり、本当にありがたいものである。





№44 西方豆腐店(平成26年9月13日)  

 先日、私の出身町の同級生から今の「美川たんぱく」の前身が私達の同級生の実家だった「西方豆腐店」であることと、その豆腐についての昔の思い出を綴ったメールが送信されてきた。

 

 私が子どもの頃、我が家も「西方豆腐店」で豆腐を買い、そのまま冷奴で食べたり、味噌汁の具材などとして食べたりした。もちろん冷奴で食べるときは「生姜」でなく「カラシ」をつけてである。

 

 「西方豆腐店」で我が家が買う豆腐は必ず「絹ごし豆腐」であり、「木綿豆腐」は食べた記憶がない。  私はその経験から豆腐とは「絹ごし豆腐」という観念があって、今でも我が家で買う豆腐といえば必ず「絹ごし」になっている。

 

 これは「西方豆腐店」の「絹ごし」のなめらかな舌触りが忘れないからであり、これも我が故郷で培った三つ子の魂だと思う。

 

 ところで、私の小学生の同級生は商店の子どもが多く、我が故郷の名産である「こんかづめ」を扱う店々には5人も同級生がいた。

 

 また、当時の我が故郷は、私が以前述べたように我が家から半径約100m以内に多くの商店があるほど商店がまだまだ勢いがあった。おかえり祭りもこの商店主の月末は多忙であるという理由から、私の小学校4年のときに1週間前倒しに開催日が移動したりしたぐらいである。

 

 このとき、先代の宮司に移動する日を何日にしたらよいかを相談したそうであるが、それまでの5月29日・30日から22日・23日となったのは、宮司の「29日・30日には『2』と『3』がつくから移動する日も同じく、『2』と『3』がつく日がよろしかろう」ということから決まったらしい。

 

 さて、実は当時の私は女子が大変苦手であり、先述した「西方豆腐店」の同級生は女子で、私は母親からこの店へ豆腐の買い物のお使いを頼まれると断固拒否したものだった。

 

 今考えると、その理由はよくわからないが、ただ当時、女子と話すことや近づくことさえ恥ずかしかった思い出があり、そのせいか時折、乱暴な口や態度などをとったことを思い出す。



№45 身欠きニシン(平成26年9月15日)

 以前、私が子どもの頃、おかえり祭りにおける台車の曳き手の酒は日本酒一本勝負であり、その肴は大袋に入ったさきイカ程度のものだと述べた。 そして、私たち子どもは台車の階段の下に仕舞ってあるこのさきイカを盗み食いしたが、祭りの日は機嫌のよい曳き手の大人たちに叱られなかったことも述べた。

 

 肴はこのさきイカのほかに、木箱に入った「身欠きニシン」もあったが、身が固く、小骨もあり、脂ぎっており、私は食べなかった。  とくにこの脂が始末に悪く、素手で食べるため、べっとり指についた脂は、行儀よく「はな紙(がみ)」(当時、「ボケットテッシュ」なんてものはなかった)を持っていれば拭き取れたが、そうでなければ自分か誰かの衣服になすりつけてキレイにするしかなかった。

 

 ただ、この「身欠きニシン」も煮つければ、身も小骨も柔らかくなり、余計な脂は落ち、当時の私はよく食べた。

 先日、私は出張の後、我が故郷に立ち寄って、同級生とともに大衆割烹に行き、この煮つけを食べたが、懐かしい味で大変美味かった。

 

 また、以前この身欠きニシンを巻いた「こんぶ巻き」のことも述べたが、この「こんぶ巻き」は「あら与」のものであり、同級生の母親が作ったものである。

 

 この「こんぶ巻き」を巻いてあるひも状のものは、他でよく見る「かんぴょう」とは違って食べられない。

 味は中の身欠きニシンからその旨味(うまみ)が巻いてある「こんぶ」に染み込んで、私は大好きである。

 

 余談だが、昔、私の母親がこの「こんぶ巻き」を買いに行くのについて行ったとき、私の同級生である「あら与」の姉とその妹が、店の近所で「ゴム飛び」で遊んでいたのを今でも覚えている。

 

 さて、「こんぶ」だが、私が今いる東京は「カツオだし」だが、我が故郷は「こんぶだし」であり、この「こんぶだし」のみかわ屋の「いなりうどん」はその麺の形状や食感とともに、ああ「これが美川のうどんや」と思う。

 

  ただ何年か前に、我が出身町がおかえり筋のとき、私は神輿を担いだが、深夜の休憩食でみかわ屋の「いなりうどん」が出てきた。

 

 最初の2杯目までは汁まで全部飲み干して美味かったが、さすがに3杯目は惰性で食べた。 余談だが、コンビニで売っている「おにぎり」も海苔文化の東京で売っているものには「とろろこんぶ」を巻いてあるものはなく、この「とろろ」を巻いてある「おにぎり」を見ると、我が故郷を実感する。

 

 さて話は「身欠きニシン」ならず、「ニシン」に戻って、私が子どもの頃食べた「こんかづめ」は「ニシン」が主で、私の親の世代は「イワシ」だった。  今は「フグの子」が有名だが、私が子どもの頃は食べたことはなかった。また、今は「こんかづめ」を細く切ったものが売っており、これは手も汚れず、酒の肴にぴったりである。 今、台車を曳いていると、この「こんかづめ」の細切り(多分、「あら与」製)が出てきて、大変便利な世の中になったものだと思う。

 

 なお、「こんかづめ」は細く切れば切るほど美味く、私が子どもの頃はこの細く切った身を食べた後、残った「こんか(糠)」は捨てずに、それでお茶漬けにして食べた。また、今のような「こんかづめ」の真空パックはなく、「こんかづめ」を買って帰ると、買い物カゴの中から、「こんかづめ」独自のにおいがしてきたものだった。

 

 ただ「こんぶ巻き」は今も昔も、その日に作ったものを売っており、真空パックなどないから、買って帰るとニシンの味が染み込んだ「こんぶ巻き」独自のにおいがする。


 

№46 あいそんね(平成26年9月20日)

 先日、おかえり祭りについて、我が故郷の同級生から「正月3日、盆3日 祭り2日であいそんね、あいそんね。」の旨を歌った戯れ歌を知っているかとのメールが届いた。

 

 誰から聞いたか忘れたが、祭り好きな私はもちろん子どもの頃から知っている。  余談だが、「あいそんね」を発音すると、「ええそんね」の表記が近いような気がする。

 

 さて、この歌は「正月と盆が3日あるのに、祭りはそれより1日少ない2日でさみしい」という意味であり、我が故郷以外にも同趣旨の歌がある。 例えば、兵庫県のわらべ歌には「正月3日、盆2日(または4日)、祭り1日せがない、せがない。」とある。

 

 しかし、今の私の出身町の町衆が言うには、おかえり祭りは、祭りの前の台車の「ギーギー」(または「ギコギコ」)と、「よんめ(宵宮)」、祭り2日、さらに「おかえり筋」の朝までを含めると、実質5日の祭りだそうである。

 

 余談だが、今は多くの台車が、祭りの1週間前の休日に、曳行される際のきしみ音を出すため、菜種油(中にはごま油)を塗った「こば(木端/木羽)」を台車の心棒(後輪)に巻きつけ、そこに車輪をはめて、前述の「ギーギー」と呼ばれる作業を高浜(たかま)で行う。

 ちなみに私は台車が「ギーギー」というきしみ音が出ない場合、それはもう台車とは言えないと思っている。

 

 ところで、私が子どもの頃、祭りの10日ぐらい前になると私たち子どもは大人たちに、台車を「いつ出すがや」、「早(は)よ出しち」とせがんだ。

 

 そのせいもあってか、祭りの1週間ぐらい前には台車が格納庫から出され、町の所定の場所に留め置かれることになり、私たち子どもは放課後、各自約束しなくとも台車に集合し、そこが上級生と下級生が混在した同じ町内の子ども達の社交場となった。

 

 この台車と一緒にいる期間も含めて祭りであり、当時の子どもは祭りの期間は今に比べてうんと長く、だから、私はとても祭りや台車に強い愛着を持つことになったと思っている。

 

 いつの頃からか、このような台車を町内の所定の場所に留め置くことがなくなったのか知らないが、これこそ「あいそんね、あいそんね。」である。  

 

 いよいよ「よんめ」の日になると、それまで何もなかった台車に提灯や幕などに加え、人形も飾りつけられることになり、子ども達の興奮も高まることになる。

 

 人形は町の当番組の区長の家で箱出しから組立、着付けなどが行われるが、子どもだった私は区長の家に「上がってもいい」と言われていないのに、上がり込んで人形の箱出しから始まる一連の作業を見たものだった。

 

 他の子ども達もこれを見たいのは一緒で、私が区長の家に上がり込んでも最初のほうは遠慮していたが、このようなことをしても叱られないようだと判断すると、ぞくぞくと上がり込んで、私の周りに来たことを思い出す。



№47 夢のあと(2014年9月21日)

  以前に「ALWAYS 続おかえり祭り」と題したメッセージの最後の方で、子ども時代、還幸祭の夜における“おかえり道中”での私が、「台車がおかえり筋で休憩に入り、動かなくなったとき、眠さに耐えきれず、家路を目指すことになる。」と書いた。

 

 そして、その「翌朝の登校時、道に残った台車の車輪の跡を目にすると、昨夜、夢見心地で見たことが夢でなかったと理解した。」とも書いた。

 

 これは当時の私の祭りの最後と“祭りの後(あと)”の余韻を書いたものだが、その「夢でなかった」ことは、おかえり道中の台車で眠さと戦って見た最後の祭りの夜の風景などばかりではなかった。

 

 祭りの2日はもちろん、それ以前の「よんめ(宵宮)」や、祭り前に所定の場所に留め置かれた台車での出来事なども含めてである。

 

 当時、私の出身町で西組が台車当番であった年は、私の家の玄関から出ると、目と鼻の先に台車が留め置かれてあった。そして、小学校までの登校路には、年によって違うが、浜町などいくつかの他町の台車も留め置かれてあった。

 

 これらがすべて、祭りが終わったら忽然と姿を消し、それまで毎日のように聞こえてきたラッパの音も全く聞こえなくなり、道行く大人も子ども何事もなかったように日常に戻っているのである。

 

 そんな中で唯一、私に“祭りの跡(あと)”を示してくれるのは道路に残った「台車の車輪の跡」であった。

 

 台車の車輪の跡は、舗装路では台車の小さい方向転換をする際に残った前輪を曳きずった跡であり、未舗装路では後輪の轍(わだち)だった。

 

 余談だが、当時の我が故郷は、私の出身町や本町通り、大正通りなどは舗装されていたが、それ以外は未舗装路(砂利道)が多かった。そのため、子どもの間では雪合戦ならぬ、石合戦が行われることがあり、私の額には数針縫った天下御免の向う傷がつくことになった。

 

 さて、今考えると、子どもだった私の目には、私が寝た後に行われた台車などの後始末を一切知らずに祭り翌日の朝を迎え、たった一晩で激変しているわけだから、「台車の車輪の跡」がなければ、前述した祭り前に台車が曳き出されて留め置かれてから以降、「よんめ」や祭り2日間のあんなに熱中し、興奮した出来事が夢かもしれないと思っても不思議はなかったと思う。

 

 今でも台車の車輪の跡を見ると、私が子どもだった当時、夜遅くまで台車に乗っていた私の耳元に、うるさいなあと思って聞いた母親の「早(は)よ降りて帰って来まっし」と言う言葉とともに、夢ではなかったという当時の感慨が蘇(よみがえ)ってくることがある。

 

 なお、台車の留め置き場所のことだが、私の出身町は交通量が多く、東西に伸びる通り筋には留め置くことができず、東組が駅前という広場を確保できたが、西組にはそのような場所がなく、南北に伸びるN氏邸と郵便局の間を通る砂利道が広い幅員を確保できたこと、坂道でないこと、西組のほぼ中央にあることなどから、この道のN氏邸横が留め置き場所となっていた。


 

№48 筋と通り(平成26年10月5日)

 我が故郷では、おかえり筋と呼ぶように東西に走る道を「筋」、本町通り、大正通り、昭和通り、宮前通りと呼ぶように南北に走る道を「通り」と呼んでいる。

 

 私の父親の郷里である神戸市内を歩くと東西は「通り」、南北は「筋」だった。これは大阪市も同様であるそうだ。

 

 昨年10月27日発行の日経新聞を読むと、このことは大阪市が南北に広がる上町台地から西へと発展した大阪の歴史が要因だとみているらしい。

 

 上町台地の北端には石山本願寺があったが焼失し、この地に豊臣秀吉が大坂城を築き、この大坂城から西へ開発が進み、中央大通など東西に伸びる道と町並みが同時につくられ、長堀通や千日前通も、町と一緒に西へ伸びていったといわれている。

 

 「通り」とは町そのもの。一方、「筋」はあくまである場所へ向かう道のりであり、「通り」とは別物だったということで、堺筋、心斎橋筋などは堺や心斎橋へ行く道とであり、御堂筋はもともと北御堂と南御堂へ向かう短く細い道で、御堂筋の北側はかつて淀屋橋へ続く道ということで淀屋橋筋と呼ばれていたらしい。

 

 なお、神戸市は明治期以降に発達した新興地だったので、大阪市にならったということだった。

 

 この大阪市のことから想像すると、我が故郷はおかえり筋と呼ばれる「筋」が町そのもので、一方、「通り」はこの各町をつなぐための「筋」とは別物の道であると私は考えている。

 

 それでは、これをもう少し詳しく見ていくと、私の同級生は、我が故郷の初期の町並みは「南町」、「中町」、「北町」の3町しかなく、やがて北へ段々と発展が進んだと主張している。 私はこの説は正しいと考えており、その証拠に「北町」の北側が新たに開発された町という意味の「新町」であり、昔、「新町」の蔵街から発展した「永代町」(昔は「片町」といったらしい)をはさんで、新町同様の意味がある「今町」となっている。

 

 さらに「神幸町」と「末濱町」が開発され、この「末濱町」が「浜町」と「末広町」に分離し、最後に「和波町」ができ、現在の10町となったといわれている。

 

 我が故郷が10町の市街地になると、先述したとおり、東西に伸びる10町をつなぐために南北に伸びた道が必要となって「通り」ができたものと思われる。

 

 では、我が故郷では大阪市と神戸市の道に関する「通り」と「筋」の東西・南北が逆なのはなぜだろうという疑問がわいてきた。 これは多分、我が故郷の10町は「通り」というには、はばかるようなカギ状などに曲がりくねった道であるため「筋」に、これに対して本町通りや大正通りなどはまっすぐに伸びた道であったことから「通り」となったのではないかと思われる。

 

 なお、今の拡幅された中町や浜町は例外として、町である「筋」は曲がりくねった道であるのは我が故郷が「北の荒磯(ありそ)」にあるため、強い浜風が町内を吹き抜けないように工夫されたためだと、昔、美川小学校の恩師から教示を受けた。

 

 そして、本町通りや大正通りなどの「通り」は古くから舗装されていたが、私の子どもの頃は10町(筋)のうち、中町を除けば、部分的に舗装されている町もあったものの、大半は砂利道だった。

 

 ところで、おかえり祭だが、祭り初日は厄祓いのため、台車は町内をくまなく巡行するが、子どもの頃、台車に乗っていると、各町の砂利道の中を、台車の車輪の大きなきしみ音とともに、その車輪が砂利を踏む音とその振動が私の耳と尻に伝わってきたものだった。

 

 そして、道が曲がりくねって狭いため、台車は細かく舵取りしなければならず、そのたびに台車上にいた私の体は左右に揺れていた。

 

 

№49 まえだか(平成26年10月13日)

 私が我が故郷における子どもの頃の主なヘアスタイルは、女子が「おかっぱ」なら、男子が「まえだか」だった。

 

 「まえだか」がどういうヘアスタイルかというと、いわゆる「坊ちゃん刈り」であるが、より詳細に説明すると、頭頂部は比較的長髪だが、ゆるやかな段になっており、側頭部と後頭部を刈り上げ、前髪を眉毛の上1~2センチぐらいで横一線に切りそろえたカットである。

 

前髪をそろえるため、最後の仕上げに、ハサミが私の額に少し触れながらパチン、パチンとカットする音が私的に何とも心地よかった。

 

 おかえり祭りの前になると、正月の前と同様に、私は新町にある朝日館に行き、若主人にカットしてもらうのが恒例となっていた。ただ、その際、私はお金を持って行ったためしがなく、すでに母親が朝日館に散髪料を支払っていたようである。

 

 祭り前になると、当時の小学生は私のように新町か、南町、神幸町などの床屋に行き、祭り用の男前になった頭で台車に乗る子どもが多かった。

 

 当時の私の出身町の子ども達の写真を見ると、日中、陽の光で眩しくて目を細めている私とともに、今や役場や金融機関などの管理職になった下級生が「まえだか」頭で写っており、たった一人の「坊主」頭の同級生も写っている。

 

 この「坊主」頭の同級生について、当時、「まえだか」頭がほとんどであったにもかかわらず、彼の父親は私から見てとても厳しい大人だったから、その強制力で無理やり「坊主」頭に刈られていると私は本気で思っていた。この「坊主」頭の同級生は、小学生低学年のとき台車に乗れたことが嬉しそうにニコニコ微笑んで乗っているのを、彼の母親や姉がやさしげな顔で見ていた記憶がある。

 

 私の出身町には、男子の同級生が私とこの「坊主」頭の同級生以外に、もう1人おり、そのヘアスタイルは「まえだか」であったが、小学校の最上級生になると体の成長から小学生用の制服が小さくなり、制服を新調するのも不経済なので、将来を見越して中学生用の高い詰め襟の制服を着ていた。このため、彼の体と制服が中学生なのに、ヘアスタイルが小学生というチグハグな形(なり)で、ちょっと奇妙に見えたものである。

 

 そういう私も、最上級生のとき、ランドセルはもう壊れてしまったので、中学生用の学生カバンで小学校に通学しており、祭りで台車に乗る時は、待たしていた母親にランドセルではなく、学生カバンを渡して乗り込んだ。乗り込んだ後、「まえだか」頭の筆頭格として、他の「まえだか」頭の子どもの座る位置を指定し、これまでのメッセージで述べてきたように台車上の「プラチナシート」に終日、堂々と座っていた。

 

 今はどの町の台車だろうと自由に乗っている子どもを見かけるが、私が子どもだった頃は、このようなことをした子どもも、しようと思った子どもも私の知っている限りいなかった。万一、このような子どもが現れたとしても、「プラチナシート」において台車上を仕切っている最上級生の許可がなければ、その町の台車に乗ることが叶うことはなかなかなかった時代であった。



№50 続我が師とおかえり祭り(平成26年10月13日)

 我が故郷を再訪するようになって、おかえり筋で再会したある同級生の計らいで、首都圏在住の我が母校(小学校)のミニ同窓会を東京で行ったことが5年ほど前にあった。

 

 私は我が故郷の小学校の6年間、ずっと1組で、それ以外にクラス替えになったことがなかった(1クラスしかないわけではなく3クラスあった)。そして、私と一緒に6年間、ずっと1組だった者は私以外に2人いた。

 

 1人は男子、1人は女子であり、この女子(私にとっては永遠に女子である)と上述のミニ同窓会で40年以上の歳月を経て再会した。

 

 この女子の同級生とは当然のことながら、6年間の恩師もすべて同じであるから、どの先生が最も良かったかという話しになった。

 

 彼女が言うには小5の担任であるM先生が最も良かったと言うので、理由を聞いたら、6人の先生の中で一番面白い先生であったそうである。

 

 彼女には面白く、良い先生であったかもしれないが、私にとってはそうではなかった。何故なら、彼女は優等生であり、体罰をもって叱られることがなかったから、そう言えるのであり、きかん坊で落ち着きのない私は、体罰をもってよく叱られたからである。

 

 その体罰とは主に物差しで尻を叩かれることであり、私はその体罰になった理由をほとんど忘れたが、授業中よく叩かれた。

 しかし、最もよく叩かれたのは意外にも私ではなく博学のM君で、M先生に言わせると、彼は「知ったかぶり」をしたという理由からであった。

 

 当時、彼は色んなことをよく知っており、特に歴史について詳しかったので、リスペクトしていたが、その知識は、その何十倍も知識のあるM先生から見れば、「知ったかぶり」であった。

 

 私たちは何か仕出かす度に、物差しで尻を叩かれるが、その叩かれた場所が尻をはずれて太もも当たった場合が悲劇で、脳天までその痛みが達した。

 

 思わず叩かれた場所に手を当てて「アイツ」(「あ、痛い」の短縮形)と口走るのであるが、すかさずM先生から「アイツとはどいつだ」と機転が効いたツッコミがきた。

 

 また、当時、私たちは校庭で遊び回って埃(ほこり)まみれになった汚いズボンをはいていたから、物差しで叩かれるとズボンから土埃が出たが、それを見たM先生から「誇(ほこ)り高き男」とダジャレも飛び出した。

 

 さて、おかえり祭だが、祭り近くになると、小学校の教室内での掃除のための机・椅子の移動は「えーじゃ、えーじゃ」の掛け声とともに押して行った。

 

 また、体育館での跳び箱や体操マットなどは青年団のラッパの音を擬音で出し、持ち上げて移動したが、M先生は我が故郷ではない隣の蝶屋在住であったにもかかわらず、私たちの祭りに対する思いを理解してか、鋭いツッコミやダジャレはおろか、何も言わず、ただ黙って見ていてくれた。


 

№51 レジェンド永代町台車(平成26年10月13日)

 これから述べることは今ある永代町台車ではなく、幻の14台目の永代町台車のことである。

 

 永代町は、他の町に比べて片町(半分)の長さしかないから、昔は片町と呼んだそうであるが、永代町を片町と呼んだ時代、現在の大正通りを永代町と呼び、11番目の町としての大正通りの永代町に14台目の台車が存在したといわれている。

 

 この幻の台車の絵を大正時代に南町西の民家で見た人の話などを掲載した町の文献によると、この幻の台車は台車上の欄干がないような変わった形状と推定しており、また、木造かそれ以外の材質かどうかはっきりしないが、台車上に馬が乗っていたようである。ただ、明治期に入り、残念ながらこの台車は洪水で流されて消失してしまったらしいが、流されるとき、奇怪な話だが、馬のいななきが聞こえたそうである。

 

 私はこのことを町の文献に加えて、同級生の父親(今は故人)の話から知ったのであるが、多々不明確な箇所が多いことも手伝って、この幻の台車の実存は眉唾(まゆつば)ものであると思っている。

 

 そう思った主な理由は、第1にこの幻の台車の根拠となる文献や証言が上述のように絵を見たという人の話による伝聞を基にして推定しており、信ぴょう性がイマイチ乏しいことに加えて、南町西にあったといわれる幻の台車の絵は、残念なことに現存しないこと。

 

 第2に、仮に大正通りを現在の永代町とは違う永代町が存在したとして、大正通りに面した角地以外の家は大正通りの永代町の住民ということは明確だが、角地の家、つまり家が東西に走る筋と南北に走る通りに面している家は一体どちらの町に属せばよいかという問題が生じてくる。このような面倒な問題を回避するためにも、大正通りの永代町は存在したとしても、それは通称としての町であり、町会費などを徴収して台車を維持するような町ではなかったのではないかと思われること。

 

 第3に、この幻の台車は洪水で流されたそうであるが、それなら、台車自体は失くなるかもしれないが、例えば、人形や永代町の赤人の狩衣、末広町の鏡などに該当するような台車に従属するか、または関係する何らかの物証が、どこか町内の民家などに残っていてもよさそうであるが、これも幻の台車の絵の話以外、何もないことの合計3つからである。

 

 以上が私のいろいろ考えた末の、幻の14台目の台車の存在や、11番目の町として大正通りが永代町と呼ばれたことに対する結論である。ただし、私は、今後の調査・研究により、幻の14台目の台車の存在を立証してほしいというロマンも持っている。

 


№52 網走番外地(平成26年11月21日)  

 私が子どもの頃、私は映画好きな父親に連れられ、金沢の映画館へよく行ったものである。観た映画は東宝のゴジラシリーズ・大映のガメラシリーズ・東映の漫画映画(当時はアニメーション映画とは言わない)の子供向けから父親が好きな大人向けの映画まで多岐にわたった。


 その当時、観た映画の中に1965年のおかえり祭りの前に観た高倉健主演の「網走番外地」があり、これが高倉建主演の映画を観た最初であった。小さいときだから、余り覚えていないが、手錠に繋(つな)がれた高倉健と南原宏治が、手錠の鎖を切るために、汽車のレールの上にその鎖を載せ、高倉健がレールとレールの間に、南原宏治がレールの外側に寝転がり、迫り来る汽車を待つシーンだけは覚えている。


 危ない方のレールとレールの間が高倉健、安全な方のレールの外側が南原宏治であり、何故こういう配置になったのか覚えていないが、危ない方となった高倉建がとても悔しがっている演技も印象的だった。


 そして、汽車は二人の上を通り過ぎ、不思議にも安全な方にいた南原宏治が絶叫とともに雪原の坂を転がっていき、危ない方だったはずの高倉建が無事だった。


 余談だが、このとき、父親は新しく小学3年になった私を未就学児と偽って映画館に入場したことも覚えており、映画館の入場口にいた係のおばさんから、「小学校に上がる前の子にしては、ずいぶん大きいわねえ」と言われたのも覚えている(なお、この後は正規の入場料を払っている)。


 このとき観た「網走番外地」の影響から、その後に開催されたおかえり祭り初日の露店で、おもちゃの手錠(プラスティック製)が売っていたので、迷わず買い求めた。翌日の祭り二日目に、顔見知りの町内の子どもに手錠をかけて上述の映画のシーンのような二人が手錠で繋がれた状態になった「網走番外地ごっこ」をやったのだが、皆嫌がり、私も二人手錠で繋がれた状態では動きづらいので、しばらくして飽きてやめてしまった。


 11月18日に高倉建の訃報を聞き、「網走番外地」とこの映画に影響された他愛もない手錠に係る、おかえり祭りのワンシーンを思い出した。


 今、我が家の近隣に、私がその昔、撮影所の駐車場に「高倉建様」と書かれた駐車スペースを見たことがある東映撮影所があり、東映系の映画館もある。11月19日にはこの映画館に献花台が設けられ、大勢の人が献花に訪れたようであるが、残念ながら私は、仕事の都合上、献花が終わってからしかこの場に立ち寄れなかった。




№53 また昭和の超大物俳優が・・・(平成26年12月4日)

 また昭和の超大物俳優が逝ってしまった。先月28日に亡くなった俳優「菅原文太さん」のことである。


 実は11年前に、私の家内の実家が、菅原文太さんが出演する映画の撮影と休憩の場所として使われたことがあった。このとき、私の家内の実家の応接間を控室代わりに使用していたのが菅原文太さんで、食堂兼台所をはさんだ仏間ではなく神間?(仏壇ではなく神壇がある)で、当時高校1年の主演女優と準主演女優が使用している。


 菅原文太さんが、家内の実家に来ているということで、家内の母親は近所からサインをもらってくれないかと頼まれたらしいが、相手が超大物だけに気を使って「サインください」とは言えないでいた。


 この時、主演女優は「文太さんなら、言えば気軽にサインしてくれますよ」と言ってくれ、背中を押してくれたらしいのだが、やはり相手が相手だけに言い出せず、とうとう近所の分のサインはもちろんのこと、自分の分のサインさえもらえず仕舞いとなった。


 しかし、せっかく色紙1枚を用意したのだからと、この主演女優にサインをお願いしたら、「えっ、私でいいんですか。私、初めてサインするんです。」ということで、この女優の初めてのサインが、私の家内の実家のリビングに飾られることになった。


 この女優の名前は「石原さとみ」、映画は彼女のデビュー作である「私のグランパ」である。当時、私の家内の実家の庭で撮影された彼女のスナップ写真を見た私は、彼女が光り輝いて見え、この子は「きっと売れる」と直感的に思い、その後も彼女に注目している。今は将来、彼女が吉永さゆりのように飛翔し、この色紙は彼女の初めてのサインだよと周囲に自慢したいと思っている。


 さて、おかえり祭りだが、今は芸能人が来たり、テレビ局が撮影しに来たりしているが、私が子ども時代には、このようなことは無縁であった。万一、芸能人が来ようものなら、多分、好奇心旺盛な同級生たちは取り囲むだろうが、当時の私は、遠目で見るか、逃げてしまうだろう。


 何故なら、私が子ども時代に、公民館(今のほほえみ館)にブロンド髪の若い女性がいたのだが、私は彼女に「アメリカ人か」と聞いたら、彼女が「私はイギリス人だが、何故、私をアメリカ人だと思ったのか」と日本語で答え、逆質問してきた。その時、私は頭が真っ白になり、何も答えず、一目散に彼女の前から逃亡した経験があるからである。


 なお、10年くらい前のおかえり祭りで台車を曳いていた際、テレビのカメラマンから、「まいう~」をやれというので、他の曳き手と3人で、この「まいう~」をやったことがある。テレビというものは恐ろしいもので、たった数秒のこのシーンを同じ会社の者が観ており、「テレビに写っているのを観ましたよ」と言ってきたことがあった。そして、ビデオ録画もしてくれており、後日、このテープを彼からいただき、今も我が家のどこかにこのテープはあるはずである。



№54 石川県から出たことが・・・(平成26年12月6日)  

 私が我が故郷に住んでいた子どものころ、私が石川県から出たのは、富山県の宇奈月温泉へ日帰り旅行に行った小6のたった1日だけだった。なお、同級生の中には小6になっても、1度も石川県から出たことがないことを自虐的に自慢する者もいた。


 私たちは、毎年恒例の町内の子ども会の旅行でさえ大変楽しみで、町内の子どもの中には熱を出しても参加した者がいた。途中どうしようもなく辛いので、休憩していた旅館の一室で寝たきり状態になっても、皆と別れて帰るのは偲びないので、なかなか帰宅しようとしなかった。


 私たちの見るテレビ番組は、今のような多チャンネル時代ではなく、民放はMRO(北陸放送)の1局しかなかったから、限られたものだった。家族と熱中して一緒に盛り上がって見たのが当時人気のプロレス中継で、力道山や、力道山の死後、豊登やジャイアント馬場、アントニオ猪木などと、ブラッシー、デストロイヤーなどの外国人レスラーとの試合が私たちを興奮させた。


 プロレス中継は金曜夜8時00分からの三菱ダイヤモンドアワー枠内での放送であったが、毎週放送があるわけではなく隔週放送で、プロレスのない週はディズニーランドという番組が放送されていた。この番組は、冒頭ウォルト・ディズニー本人が出てきて今日これから放送する本編を解説してくれた。余談だが、この本編の中で、若き日のベートーベンを描いた物語(多分、前後編の2回放送)が私にとって特に印象に残っている。


 以前のメッセージにも述べたが、この当時、ディズニーランドはテレビで見るか、近所の文房具店「たちかん」で買った「ディズニーランド」という雑誌で見る遠い海のかなたのもので、後年、日本国内にディズニーランドができ、比較的容易に行くことができるとは夢にも思っていなかった。


 このように今と比べれば娯楽が少なく、地味な私の子ども時代において、正月と盆がいっぺんに来たような豪華な「おかえり祭り」がいかに楽しみであったか、筆舌に尽くし難いものがある。


 子どもの中には、いや大人でも毎年の台車の巡行順を記録している好事家(こうずか)がおり、町内の子どもの父親か爺さん世代が、その昔、台車の改修などに携わっていようものなら、私たち子どもの間では大変話題になったものだった。


 なお、私には娘がおり、我が家から比較的近いせいか、小さい時からよく東京ディズニーリゾートに行っているが、この娘が小学校高学年の時、このディズニーよりおかえり祭りの方が楽しいと言ってくれた時、私はぐっとこみ上げるものがあった。



№55 我が故郷の冬(平成26年12月18日)  

 今年の冬は寒いようである。いや、地球温暖化の昨今、今年は昔の冬の寒さに少し戻ったというべきか。

私が小学校へ上がる前の昭和38年(1963年)1月に、「サンパチ(38)豪雪」というのがあって、とんでもない量の雪が降ったことがあった。


 我が故郷の私の近所において、東西の筋は比較的早く融雪したようであるが、南北の通りは車や人の通りが少ないせいか、降雪後も長く雪が残り、民家の二階から出入りしているところや、この高さから滑り降りることができる大きな雪の滑り台もあった。


当時、私たちの冬の装備は、今は見かけなくなった「アノラック」という名の冬用ジャンパーに長靴で、帽子は戦時中の戦闘機のパイロットが被っていたようなものを被り、この帽子にはレンズがセルロイド製のゴーグルも付いていた。


 雪の路を歩く際、なぜか子どもは雪のない箇所を歩かず、わざと雪の積もった箇所を歩くのだが、白い雪に太陽が反射してまぶしく、このゴーグルで光を遮ったが、今考えると、紫外線カットはできておらず、眼の保護から考えると杜撰なものだったと思う。


 また、北陸特有の湿った重い雪のせいで、外で遊ぶとズボンが雪で濡れ、その後、隙間風が入る我が家の練炭ストーブにあたると、しばらくしてズボンから湯気が立ち上ってきた。


 余談だが、夜、余りに寒いので、「豆炭アンカ」を足元に置いて寝たものだった。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では湯たんぽだったが、我が故郷では、この「豆炭アンカ」を使用する家庭が多かったと思う。


 あと手編みのセーターを着ている子どもも多く、我が家も母親が毛糸を買ってきて、臨町である南町の手編みができる人に手間賃を払って、編んでもらったものを私は着ていた。そして、成長するとともに、着ていたセーターをほどき、新しい毛糸を足して、大きなサイズに編み直して着たものだった。また余談だが、この編み直して、後で足した毛糸の違った色により、二度と再現できない縞模様が入ったセーターとなった。


 そんな年でも、4月まで残っていた雪も5月に入ると完全になくなり、手足のしもやけも癒え、青年団のラッパの練習音が薫風に乗って我が家に届く季節となったとき、子ども心に、雲が低く立ち込めた暗い空、冷たく吹きすさび粉雪を巻き上げる浜風などを完全に忘却することができた。


 私が子どものころ、このようなことを経験してきたからこそ、今でもおかえり祭りが来たことの真の喜びを感じることができるのだと思う。

 


№56 御輿が勝手に歩けるゆうんなら、歩いてみいや、おう!(平成26年12月7日)  

 昭和の超大物俳優2人が逝ってしまって、私には思うことがある。まずは「高倉健さん」について、東映の後輩俳優の故室田日出男さんが、「健さん」の実年齢と比べてとても年齢相応に見えず若いので、「化け物」と言っていた。


  「健さん」は83歳で亡くなり、81歳の時に撮った映画が遺作となったが、「健さん」のことを誰も「老人」と認識した人はいないのではないかと思う。背筋がぴんと伸びたその立ち姿は、そういった年齢になっても、「老人」が最もよく似合わない俳優だった。


 そんなことを思うと、私は前回の出身町がおかえり筋だったとき、神輿の担ぎ手はこれが最後かと思ったし、同級生の中には、我々のような「じいじい」は神輿の担ぎ手ではなく、台車の曳き手がふさわしいと言われたが、「健さん」をみると、次回、いや次々回も神輿を担げる気がしてきた。


 私も及ばずながら「健さん」のように年齢を重ねていければと思うようになり、目標をそう立てれば、今後の私の人生がだいぶ明るいものになってきた。また、女性は「吉永小百合さん」のように年齢を重ねていくのが、一つの理想形ではなかろうか。


 次に「菅原文太さん」について、「文太さん」が主演した映画「仁義なき戦い」の中で、私が最も印象に残るセリフは、子分が親分に対して「御輿が勝手に歩けるゆうんなら、歩いてみいや、おう!」である。

人に担がれる者は担ぐ者(部下や支持者・支援者など)がいなければ何もできないといった意味だが、下の者の手柄を横取り、責任をなすり付け、人の意見に耳を貸さない上の者によく聞かせてやりたい痛快なセリフである。


 美川の神輿も担ぎ手がいての神輿であり、その担ぎ手がいなければ、台車(曳山)が築山となってしまうように、飾っておくしかないことになる。そして、青年団だが、神幸祭はもちろん、還幸祭でも彼らが主体で神輿を担いでいる現在、彼らがいてこそ、美川の伝統を守り、神輿の勇壮な渡御が行われることが可能となる。


 今も私の子ども時代も、神輿渡御の際に纏(まと)う白襷(しろだすき)を見ると、この白襷が最も似合うのは青年団のような若衆であり、我々のような実年になると、あまり似合わないなあとつくづく思う。しかし、外面は若衆に叶わないまでも、「健さん」のように自分を律して、この白襷が内面から似合う実年になってみたいと思っている。



№57 金沢ヘルスセンター(平成27年1月8日)

 昨年12月某日に、私と同職の方々の実務情報交換の場である某公益社団法人の実務部会の施設見学会兼忘年会に行ってきた。


 行った施設は、私の所属する実務部会のスーパー銭湯を運営する会社が、横浜市内に建設した次世代のスーパー銭湯施設で、ワンランク上の多種多様な風呂や豪華な館内等で、宿泊はできないが、終日楽しめる施設であった。


 宴会の開始にあたって、代表して挨拶した金沢出身の、私より6歳年長の方が「昔のヘルスセンターを思い出しますが・・・」との言辞があった。私はこのとき「金沢ヘルスセンター」と思わず叫んでしまった。


 私が子どもだったころ、ボンネットバスに揺られ、卯辰山の「金沢ヘルスセンター」に行ったことが何回もあった。大人は大浴場につかった後、大広間で宴会や演芸を楽しんでいたが、私たち子どもはトラやライオン、ゾウ、カバ、キリン等を見に動物舎に行って楽しんだものだった。


 なお、この「金沢ヘルスセンター」で歌っていたのが新川二朗で、村田英雄に見出され、1964年の東京オリンピックの年に「東京の灯よ いつまでも」が大ヒットし、我が故郷出身の浅川マキでも果たせなかったNHK紅白歌合戦に出場し、これが今でも石川県出身歌手の唯一の紅白出場であるらしい。


 私は「金沢ヘルスセンター」がなくなったことは知らなかったが、宴会の最中、隣席にいた10歳年長の大聖寺出身の方より、時代の流れから閉鎖されたと聞かされた。


 さて、私は銭湯というと、子どもの頃にお世話になり、36年ぶりに我が故郷に再訪後もよく利用させていただいた「本町湯」(美川温泉観光ホテル)が真っ先に思い浮かぶが、これも廃業してしまった。


 今は我が故郷を訪れる度に、「美川元湯温泉ほんだ」に必ず行き、東京で身と心にたまった(とくに心の)垢を洗い流し、故郷の風呂で癒やされるのが毎年の行事となっており、我が故郷の友人・知人等と「ほんだ」で会うと、故郷談義に花を咲かせることが、何ものにも代えがたい時間となっている。


 冒頭に述べた超スーパー銭湯のような施設・設備ではないが、私にとって心から身も心も清められ、かつ癒やされるのは、今は「美川元湯温泉ほんだ」のみであり、この風呂に入り、リフレッシュした後に、おかえり祭りに参加できることは本当に幸せなことであると思っている。



№58 血が騒ぐ(平成27年3月10日)

 私が故郷を再訪するようになって、毎年、おかえり祭りが近くなると、私は我が家において、おかえり祭りの録画を再生し、その鑑賞を行なう。ときには「パパ~ン・・・」と雄叫びを上げると、我が家の猫は、何事が起きたのかと、ソファーの下に一目散に隠れてしまう。


 家族はまたお父さんの毎年の恒例の行事が始まったと、あきらめ半分、迷惑半分の境地となるらしい。とくにカミさんは、私一人が悦に入っている姿を見るにつけ、憎々しげに思うらしく、隠れている猫を指差し、この騒々しい私の言動と、自分だけ「男の祭り」を楽しんでいることに加え、牛が反芻するがごとく、過去の私の悪行も持ちだしてお説教してくることになる。


 しかし、私は毎年、この時季になると、「だら(ばか)」は死んでも治らんとつくづく思うが、どうしても昔の私の子ども時代のように「血が騒ぐ」のである。また、この時季、通勤途上の路で物理的には聞こえないはずの「パパ~ン・・・」が時折聞こえてくることもあるから、もう昭和の死語だろうが、「ほとんど病気」である。


 今年はとうとうカミさんの我慢も限界に達したらしく、おかえり祭り開催期間とほぼ同時期に、カミさんは自分の両親を連れて海外へ旅立つことを、今年の年初に、私に対して宣言してきた。ただ、そんな不穏な家庭状況でも、私の娘はどうやら私の騒ぐ「血」を受け継いだらしく、今年も私と一緒に我が故郷に訪れてくれるらしい(涙)。


 私が我が故郷で子どもだった頃、祭り前には小学校から一目散に留め置かれた台車に向うとともに、突然、「パパ~ン・・・」と口ずさむこともしばしばあった。また、この時季、留め置かれた台車以外にも、ラッパの練習音や同級生の様子、町の雰囲気など、これらすべてに対し、祭りモードが毎日醸成され、これが祭り当日に最高潮に達することになった。


 そして、待ちに待った祭りの朝は、母親が作る寿司の酢飯の匂いから始まることになるのだが、この祭りに対する「血の騒ぎ」は、我が故郷に生まれ育った者でなければ、なかなか理解し難い気持ちであるに違いないと思う。


 なお、私と同じ町の同級生の一人は、祭り初日の台車巡行で、私よりかなり遅れて台車に乗り込んできたようであるが、後年聞いた話では、その遅れた理由は「お獅子」が怖かったらしく、その「お獅子」を避けるために少し時間がかかったということだった。そういえば、私の記憶によれば、今の「お獅子」は当時の「お獅子」と違うように思うが、気のせいであろうか。




№59 父娘(平成27年3月24日)

 おかえり祭りまであと2ヶ月を切った3月下旬は日本全国、どこへ行っても卒業式シーズンである。私の子どもの頃、私の出身校である美川小学校の卒業式は、今はどうか知らないが、私の誕生日と同じ3月24日と毎年、判で押したように決まっていた。

 

 先日、我が娘の卒業式に行ったら、息子のときにはなかった「親への手紙」が入った封筒を受付で渡された。式中、ただでさえ感動的なのに、この手紙を見て、思わず「うっ」と泣きそうになってしまった。

 

 なぜなら、最近、年頃になった我が娘に避けられぎみだったのに、そのことを詫びた後、お父さんと一緒に「洋服を買いに行きたい」ことと、「また石川県に連れて行ってほしい」と書かれていたからである。

 とくに後者の「また石川県に連れて行ってほしい」は、「またおかえり祭りに連れて行って」とほぼ同義で、これには参りましたとしか言いようがなかった。

 

 我が娘が幼稚園児の頃、おかえり祭りの期間中に、初めて我が故郷に連れてきたが、それから、10年超、受験の年の1回は除いて毎年、私と一緒に訪れている。だから、我が娘にとって、かえり祭りと我が故郷は「三つ子の魂百までも」であり、すっかり私の遺伝子を受け継いでいるのだと思う。

 

 今年の5月はまた父娘でおかえり祭りの我が故郷に訪れたいと思うが、大きな懸念材料がある。

それは、我が娘がおかえり祭りに行くために、学校を早引けしなければならないことから、私のカミさんが非常に「いい顔」をしないということである。とくに進学先では金曜が7限目まで、土曜も授業があるようであり、翌週に中間テストも控えていることから、これまで以上に、今年は娘と一緒におかえり祭りに行くことがやっかいなこととなってしまった。

 

 ところで、私が小学生の中学年だった頃、私と同じ1組の和波町在住の男子同級生が親と出かけるため、早引けしたことがあった。しかし、彼はこのことを先生に言い出せずに、授業中、突然泣き出してしまい、これを見た先生が理由を聞いてやっとこのことが判明し、早引けできたものであった。そういえば私もおかえり祭り当日、これに近い気持ちで、泣いて早引けできるものなら、そうしたかった。

 

 なお、入学式だが、私が美川小学校に入学した当時は4月5日であり、卒業式と同様に毎年、判で押してように同日に決まっていた。その当時の我が故郷には桜の木はなかったと思うが、竣工なった真新しい鉄筋4階建の校舎に入ると、下駄箱近くの壁のところどころに、紙に書いた桜の花が満開に咲いていたことを鮮明に思い出す。



№60 北陸新幹線とポ-の音(平成27年3月26日)

 3月14日に、とうとう北陸新幹線が開業した。故郷の同級生からのメールでは金沢は大分盛り上がっているらしいし、テレビを見てもその雰囲気は伝わってくる。


 さて、私がまだ幼かった頃、北陸線を走る列車は蒸気機関車であり、この汽車が美川駅から発車するときの汽笛の「ポー」という大きな音は幼い私にとって、とても怖い音だった。


 当時の美川は、国鉄美川駅から美川大橋の中間に位置する踏切が有人であり、大人が数人入れるくらいの待機小屋があり、そこに汽車が通過する度に遮断機を上下させるための係員が1人配置されていた。


 おかえり祭りの行事も例外でなく、この係員が遮断機を上げない限り、青年団の神輿がここを通過できなかったことを思うと、本当に隔世の感がある。


 すでにこれまで述べてきたが、私は両親が共働きで、幼い頃は町内の「ばあば」のいる家に預けられていた。

幼い私が家の中ばかりで飽きると、この「ばあば」とこの家のお姉ちゃん(私よりかなりお姉ちゃん)に連れられて、よくこの踏切に来たものだった。

 そして、この踏切付近で、また、雨天の日は待機小屋に入れてもらい、「ポー」の音を聞きながら(この音が怖いので、お姉ちゃんの手をしっかり握りながら)、通過する汽車を見たものだった。

 

 ところで、これまでの我が故郷への私の交通手段は飛行機だったが、飛行機は乗ってしまえば、わずか約1時間だが、これに加えて空港までのアクセスや出発時間までの時間的余裕を考えなければならない。

 しかし、北陸新幹線ができたお陰で、新幹線停車駅までのアクセスや新幹線は出発ぎりぎりでも乗ることができることを考え合わせると、私の我が故郷の往復に要する時間はかなり短縮されるはずである。


 また、これまでの私の我が故郷への往復は、何らかの事情で飛行機を利用しない場合、なぜかしら越後湯沢経由の上越新幹線ではなく、米原経由の東海道新幹線を利用している。

 

 しかし、今年、北陸新幹線を利用する場合は、初めて富山を通って我が故郷を往復することが実現する。



№61 親子3代(平成27年4月17日)

 おかえり祭りは男の祭りであり、台車を曳くのは男だけであるから、血のつながった親子3代が一緒に台車を曳いて祭りに参加するためには、男が3代続かなければならないことになる。

 

 ただ台車に乗った子どもまで含めた祭りの参加なら、今は昔と違って女の子も台車に乗れるから、男が2代続き、その後女の子であっても、親子3代一緒の祭り参加ができるということになる。

 

 しかし、昨年、一昨年のおかえり祭りでは、我が故郷の私の出身町において、少なくなったネイティブ(生まれたときからの出身町の住民)が親子3代で一緒に台車を曳いて祭りに参加していた。

 

 これは子ども世代が親と同居することが少なくなった昨今、親孝行な息子がいなければ成し遂げられないことであり、また、それ以上に義理の父母と一緒に我が故郷に住むこととを決断したお嫁さんの理解に大きな拍手を送りたい。

 

 この3代のうち、小さい孫は台車に乗ることを怖がって爺さん(祖父)と一緒に台車の綱を曳いており、それを横でお嫁さんがビデオ撮影するという微笑ましいものであった。

 

 また、お嫁さんのご主人たる息子は、台車の前輪付近で、台車全体の様子を見ながら本当によく働いてくれていた。  親子3代のネイティブが一緒に台車を曳くというのは、我が故郷全体で見れば他にもあることなのかもしれないが、私の出身町においては、私は初めて見させていただいた。

 

 しばらくして孫は疲れたらしくお昼寝タイムとなり、自宅に帰ったが、それまでは、カメラをかかえた観光客は世代を超えた孫と爺さんの曳き手を被写体にする人が多かった。

 

 私の子どもの頃を振り返ると、祖父と息子が台車を曳き、その孫が台車に乗っているというのは見たことはあるが、親子3代のネイティブが一緒に台車を曳いているのを見た記憶がない、

 

 なお、先述した親子3代一緒の曳き手のうち、孫のことであるが、人生誰でもモテ期があるそうだが、祭りの最中、中学生のお姉ちゃんたちから囲まれ、かわいいと大変な人気でモテモテであった。

 

 この子がとても「愛想(あいそ)があるイイ顔」をしているからであり、また、爺さんに似て男ぶりがイイせいであろうが、幼いときにモテ期が来てしまって、将来が少し心配になってしまったのは私だけだろうか。



№62 おかえりガールとおかえりマダム(平成27年4月21日)

 青年団は男ばかりではなく女子部もあり、私が子どもの頃、このお姉ちゃんたちには読み終わったマンガ本やきれいな紙をもらったり、当時のアイドルや年長者に対する礼儀などのご教示を受けたりして大変お世話になった。


 祭り初日の女子部は女子部長を筆頭に、お揃いのTシャツを着てカメラを片手に神輿や団員を早朝から深夜まで追いかけている。

これは今も昔も、カメラがアナログからデジカメ、スマホに変わっても、基本的に変わらないと思う。


 また、カメラでの撮影もさることながら、彼女たちは団員が食べる3度の食事や、辻々でのグッドタイミングでのラッパに注ぐお湯の用意などをし、かつ祭り前も裏方として大変な世話好きぶりである。


 祭りにおける青年団はラッパ手や旗手、神輿の担ぎ手などの男衆ばかりが目立っているが、その周囲にいる彼女たちにも是非注目していただきたい。

 男臭い青年団の中にあって、「優しい、思いやり」の花言葉を持つ虞美人草(ヒナゲシ)がひっそり咲いている姿を見ることができる。


 彼女たちも祭りで勇躍する男の団員を見て、男に生まれればよかったと思うこともあると思うが、祭りに対する思いは男の団員と何ら変わらないと思う。


 そして、おかえり祭りにはもう一つの大きな花がある。それは10年に1度巡ってくるおかえり筋の家々の弁天柱たちである。


 彼女たちは祭り当日、朝イチで加賀友禅の着付けをし、大黒柱とともに、または大黒柱に代わり、指定時間ごとに入れ替わり立ち代わり訪れる招待客の接待などを行なう。


 日頃着慣れないであろう着物を朝から晩まで着ていることも難儀であろうと推察するが、それに加えて、間を持たせるために、見知らぬ我々オジサンたちへのお酌に、話し相手にと、とても気も使ってくれている。


 彼女たちは青年団女子部と同様に、おかえり祭りにはなくてはならない存在であり、我が故郷に咲いた「おもてなし」の花言葉を持ち、蔓(つる)性植物の女王と呼ばれるクレマチスである。


 ちなみに私は、ひそかに青年団女子部を「おかえりガール」、おかえり筋の弁天柱を「おかえりマダム」と呼んでいる。





№63 続美川のラッパ(平成27年4月29日)

 私が子どもの頃、4月初旬から青年団によるラッパの練習が開始されていたそうだが、耳慣れた音階のラッパの音が、私の耳に聞こえてくるのは5月に入ってからであった。

 私の子どもの頃より祭りの開催が早まった今では、それに伴って練習開始も早くなっているだろうから、もう少し早く聞くことができるはずである。

 また、練習場所は手取川河川敷で、雨天時は我が母校の体育館となっており、練習中には女子部が飲み物と「お湯」を用意していたが、おそらく今でも行われているものと思う。

 

 なお、「お湯」はラッパの中にたまった唾液を流し落すためのものであり、ラッパ手が自分の唇を当てる方の口を手で押さえて下にし、大きく開いた音の出る方の口を上にして持つ。

 その上の口に、女子部がヤカンの「お湯」を注いでいる姿は祭り当日にはよく目にすることができる。

そして、ラッパ手が自分のラッパをくるくる回して「お湯」を側溝に出してやると、また元のイイ音が復活することになる。

 

 余談だが、ラッパ長は団長と違い、青年団の最上級学年でなくともなれ、実際、私の学年から2年続けて選ばれており、私は大変誇らしいことと思っている。

 

 ラッパの練習は「よんめ」の日は練習しないため、5月の祭りの前々日まで行われ、私が子どもの頃住んでいた比較的練習場所に近い地域はおろか、風向きで高浜付近でも聞こえてきたことがあった。

 

 このように祭り当日だけでなく、祭り前から我が故郷の住民や私のような出身者にはラッパの音は自分の体深くにしみこんでおり、「ああ、やっぱり美川はラッパや」ということになるのだと思う。

 

 私が故郷に再訪するようになって、ラッパの練習場所近くに住む子どもから、「毎日、ラッパの(練習の)音でやかましい」といった旨を漏れ聞いたとき、「美川の子がそういうこっちゃイカン」と思わず言いたくなったのはおそらく私だけではないのではなかろうか。

 

 私も久しぶりに、祭り1周間前に我が故郷を訪れ、台車のギーギーと、私の子供の頃にはなかった青年団による新旧神輿の入れ替えを見たいと思っているし、それ以上にラッパの練習を見たいと思っている。

その頃にはすでに始まっていると思われる旗手との合同練習を見ることができるはずである。

 

 ところで、青年団(男)の在籍期間が5年から7年に伸びたが、女子部は3年から一体何年になったのだろうか。



№64 今町とおかえり筋(平成27年4月30日) 

 今年のおかえり筋は今町で、その台車の巡行順はくじ引きで毎年「壱番」のくじを取るので、当たり前のことだが毎年先頭であり、前には他の台車はない。また、台車には意匠をこらした鏡板が腹の部分にあるが、その鏡板と上の台の間には、中町と同様に蛇腹が入っており、その分、他の11台の台車より子どもが乗っている台上は高くなる。


 これらのことから、乗っている子どもには前の景色を遮る他の台車がなく、かつ高い目線で見る町並みの景色を楽しめることになる。ただ曳く大人にとって、先頭がいいことばかりとは限らず、休憩時、他の台車のように前の台車が動き出たら出発というわけにはいかず、常に定められた出発時間を気にしなければならないから、結構大変なようである。

 

 なお、今町のみ昔からミニ台車があり、今はJR美川駅に飾られており、また、今町住民の中にも自作と思われるミニミニ台車を自宅の玄関先に飾っているのも見かけ、祭り熱心な町であることが覗える。

 

 さて、おかえり筋だが、10年前の今町のおもてなしをみると、芸姑だか舞妓だかを招待客の接待に呼んだ家があったり、寿司屋のカウンターを家の中にこしらえたりと、豪勢かつ趣向をこらした様を見聞きして、さすが我が故郷、いや今町と思わずにはいられなかった。

 

 おかえり筋は10町(筋)あるが、今町はその中で人口と世帯数の双方で和波町に次いで2番目に多い町であり、今年もその分おかえり筋の賑やかさは増すものと思われる。余談だが、昔、片町と言われ、今町の半分くらいの長さしかない永代町でも、9年前のおかえり筋の神輿渡御について、意外と他町とほぼ同等の時間を要すると知って、祭りは「うめこと(うまいこと)なっとる」と思ったものだった。

 

 おかえり筋の家々で行われている宴席の最中、家の中で青年団の集合ラッパが聞け、旗手の旗振りも見られたりする。

旗手の旗について、その先が天井板を突き破ったことがあったそうだが、さすがに我が故郷の若衆は威勢がよく元気である。

 

 そして、私の子どもの頃にはあった、子どもによって行なう南蛮風衣装を着た小獅子も平成19年の祭りから復活し、鳴り物の演奏とともにおかえり筋で舞われている。

 

 私の子どもの頃、ある同級生が小獅子は裕福な家庭の子しかなれないと言うので、その頃、そうでない家庭の子だった私にとって小獅子は切ない思い出である。

 

 

№65 鳳凰(平成27年5月4日) 

 おかえり祭り初日のクライマックスは、日付が変わる午前0時少し前となる高浜(たかま)にあるお旅所への神輿の「お着き」である。


 ライトアップされ金色(こんじき)に輝く「鳳凰」を乗せた神輿が舞い、「お着き」になる様はまさにクライマックスにふさわしく、青年団とそのOBに、消防団も加えた「総力」による見せ場である。

 そして、「お着き」の後は、その興奮が冷めやらぬ中、青年団全員が整列し、神輿にかかった梯子を登っていく青年団団長の「個」によるもう一つのクライマックスと言って過言ではない見せ場が待っている。


 団長は、毎年、青年団の最上級学年の中からただ一人選ばれ、この時までは藤塚神社前の神輿の「お発(た)ち」から神輿前を後ろ向きにずっと歩いており、目立つことはあまりないが、この時ばかりは団長ただ一人にすべての目が集中する。


 梯子を登リ終わった団長は「鳳凰」を神輿から両手で抜き出した後、それを右手に持ち、左手を腰に置いて、少し間を置いた後、「鳳凰」を高々と掲げ上げ、さらに左右に少し振る。

 それと同時に、興奮した周囲からの大歓声とともに、フラッシュが焚かれ、大きな拍手が送られる。


 まさに団長の一世一代の見せ場であり、歌舞伎の大見得に匹敵するであろうが、この「鳳凰」を掲げ上げるのは、そうは簡単にはいかないこともあるだろうと思われる。


 というのは、私もこの「鳳凰」を持ってみたことがあるが、両手でもずっしりと重く、簡単に片手で持ち上がるものではない。

 また、梯子に登った高みから周囲を一望できる団長は、団員や見物客などの目が自分一人に集中しているのが見て取れ、これを目の当たりにして緊張しないはずはない。


 この日、この時のために団長は右手の筋トレを行っているそうだが、小柄な者であれば、掲げ上げるのが難儀なことであるし、周囲を見て緊張も極みに達した者には筋トレの実力を出し切れない場合もあると思う。


 それでも、この見せ場を完遂できるのは、期待を一身に背負ったのであるから、何が何でも掲げ上げるのだという気持ちの強さといえるのではないか。


 余談だが、神輿は見下ろすことは禁忌であるが、祭りの中で神輿に「鳳凰」を差し入れるか、または抜き出す際において、その任に当たる者は例外となり、この一人が団長であり、この任に当たる者の中では、この時の団長が最も注目を浴びる。


 また、団長による見せ場を下で見ていた青年団の同級生たちの心境は、このような晴れ舞台は「俺だってやりたかったなあ」などと思う者もいると思われ、複雑な心境であると推測できる。

 


№66 舞い込み(平成27年5月4日)

 我が故郷の祭りは奥が深い。なぜなら、私が今日までこれだけ書いてきても、ネタがつきることがない。それどころか、私の愚鈍な頭でも書くネタが次から次へと湧いてくる。


 さて、舞い込みだが、この順番は、祭り前に藤塚神社で行われるくじ取りによって決まる台車の巡行順による(ただし、今町とおかえり筋の台車は例外)。


 くじについては、まず本くじを取る順番を花くじ(予備抽選)で決め、次に花くじ順に本くじを取り、その年の台車の巡行順が決まる。

 しかし、この花くじを取った時に、たまに本くじとカン違いして良い巡行順を取ったと喜ぶ早合点な代表者もいる。

 なお、今町はくじ取らずと言う方もいるが、厳密に言うとくじを取らないのではなく、常に「壱番」のくじを取るのである。


 こうして決まった巡行順で、台車は祭り初日の長い道のりを巡行し、そして祭り2日目の夜は、例外は一部あるものの、ほぼこの巡行順に、おかえり筋の舞い込み先に舞い込んでいく。


 ところで、今も昔も最後尾の台車の曳き手は、舞い込み先の各家において、先順の台車の曳き手による宴会が終わるまで、待ちに待っての宴会となり、それも他の台車の曳手が盛り上がった後の宴会となる。

 また、舞い込み先での最後の宴会であるから、舞い込んだ曳き手は、舞い込み先の家人が早く休みたいのではないかと気配りをし、早々に宴会を切り上げなければならないと思ったこともしばしばあるのではないかと推察する。

 さらに、最後尾になれば台車を格納庫に仕舞って自宅に帰って寝るのも深夜どころか午前様も最たる最後で、肉体的につらいものがあり、翌日に仕事がある者にとっては特につらいものがある。


 以上のことは、たまの最後尾ならまだ許容範囲であろうが、私の子どもの頃は、末広町が常に最後尾の「拾参番」のくじを取ることになっていた。

 このことから、末広町にとっては巡行順が祭りの伝統文化とはいえ、常に最後尾という不公平で納得しがたい気持ちがだんだんと膨らんでいったに違いないと推察する。


 そして、末広町のこのような状態を解消するために、「拾参番」を1つの台車に特定することをなくそうということになり、私が小学校中学年の年から、「壱番」の今町を除くすべての台車が「拾参番」を含んだくじを取ることにより巡行順を決めることにした。


 余談だが、私の出身町の同級生が言うには15年ぐらい前に、彼のおかえり筋の年から前述した舞い込み先を指定するシステムを導入したそうである。

 このシステムは今でも続いているところを見ると、おかえり筋に当たった各町にとっては評判が良かったようである。

 

 

№67 熱気と神気(平成27年5月5日) 

 おかえり祭り初日の夜、我が故郷の10町を厄払いに巡行し終えた13台の台車は、高浜(たかま)の南側に建ち並ぶ各々の格納庫から前部を出し、まさに青年団の整列姿と同様に、台車が一列に整列した形で、提灯を灯したまま留め置かれる。


 これは、これから高浜お旅所に「お着き」になる神輿を出迎えるためで、私が子どもの頃、これらの格納庫は南北両側に建ち並んでおり、両側に整列した形で台車は神輿を待つことになっていた。


 こうした中、高浜にその姿を現した後、渡御してきた青年団は高浜の入口少し入ったところでこの日最後の休憩を行う。


 この休憩時、余興で気勢を上げ、最後にお約束の「団歌」を合唱し終えると、早朝から深夜までの長旅の疲れを若い力でものともせず、この日最後で、かつ最高の「神輿の舞」を見せてやるぞという青年団の気迫を見て、月並みな表現だが、若いってすばらしいと思うのは私だけではないだろう。


 さて、最後の「神輿の舞」だが、深夜にもかかわらず、もうこの時の高浜は青年団とともに、大勢の見物客でごった返して、湯気が上がるがごとくほこりが舞い上がっている。

 このような中、高浜お旅所の前に位置する鳥居前と、台車の整列する前を何度も行ったり来たりしながら、祭りの「熱気」はだんだんと最高潮へ向かっていく。


 私には、この時の神輿に乗った金色(こんじき)に輝く「鳳凰」が揺れ動き、進みゆく様は神々しく、「神気」さえ感じる。


 その後、私には次のように感じるのだが、この「熱気」が最高潮に達し、「神気」が満ちた時、ついに機が熟し、お旅所前の鳥居中央に下がった房を、神輿に乗った「鳳凰」がゆっくりと触れて進んでいくことになるのだと。


 さらに、だんだんと早いスピードになるラッパの音の中、お旅所前をしばらく神輿が舞った後、最後の力を振り絞って旗を振る旗手がお旅所へ倒れこむと、これ以上ないという早いスピードのラッパの音もやみ、神輿は下ろされ「お着き」となる。


 この時、周囲の見物客から、これまでの「がんばれ」から、「よくやった」の掛け声に変わるとともに、大きな拍手が沸き起こる。

 そんな中、これまでの厳しい練習を思い出してか、それとも「お着き」の達成感からか、青年団団員は放心状態になる者、感極まって涙がにじむ者などが見て取れ、私も思わずもらい泣きしてしまう。


 なお、私が子どもだった頃、私も含めて私の世代は総じて早寝だったので、「お着き」も、その後の青年団団長による「鳳凰」の掲げ上げも見た子どもはほとんどいなかったと思われる。

 しかし、長い年月が流れ、私の子どもはこの様を、深夜で眠いと思われるのに、何も言わず凝視していた。

これは、私と同じように、上述した「熱気」と「神気」を感じ取ってくれたに相違ないからだと思う。


№68 故郷と祭りと人生(平成27年5月8日)

 おかえり祭りは美川小学校校下の祭りであり、この校下に住む我が故郷の人々とおかえり祭りの関係をみると、子どもの頃はラッパの音を聞きながら台車に乗り、ほとんど何も含んでいない真新しいスポンジに、おかえり祭りという水を、その内面深くにしっかりと染み込ませていく。


 この後、我が故郷の人々の多くは、祭りとの関係において、主として以下のような人生を送ることになると思われる。


 まず我が母校の美川小学校を卒業して中学、高校と進学するが、この時期は台車にはもう乗ることができなくなり、受験を見据えた勉強や部活、学校行事などで、中高生の6年間は祭りとはある一定の距離を置くことになる。


 次に高校卒業という大きな転機が訪れ、進学や就職で我が故郷を離れる者も大勢いるが、このまま残る者は子どもの頃に奥深く染み込んだこの祭りの水を内面に、青年団に属し、神輿を担ぎ、役員やラッパ手、旗手など、祭りの花形世代となる。


 しかし、この花形世代も在籍期間を満たせば、OBとなり、しばらくは神輿に携わるが、やがてこれも離れる日が来ることになる。

 このときの感慨は、おそらく我が母校を卒業するがごとく、一抹の寂しさがあるに違いないと思う。


 そして、また子どもの頃乗っていた台車に、今度は曳手として戻ることになるが、これまで青年団の後輩を指導していた立場から一転して、台車の曳手としては1年生としての参加となる。


 台車の曳手の期間は、子どもや青年団の期間に比べて、果てしなく長い期間であるが、曳手に成り立てから壮年の頃はまだまだ体力のある年代なので、主に前輪付近で舵取りの曳手として活躍する。

また、台車に携わり始めた頃から、おかえり筋の友人や知人の家々から招待状が届くようにもなる。


 さらに歳を重ねると、台車の役員が回ってくるようにもなり、中には青年団の頃にやりたくてもやれなかった神輿の「鳳凰」の挿抜の任を、10年に1度巡るおかえり筋の代表として仰せつかる者もいる。


 やがてこの台車とも離れ、静かに祭りを楽しむ時期がやって来ることになるのだが、これは一律に決まっている学校の卒業や青年団から離れる時とは違い、人それぞれの体力や気力、そして何より祭りへの情熱により異なってくると思う。


 以上のような人生を、我が故郷においては、次世代に繰り返し引き継いでいくことになるが、私の人生は途中から違ったものになった。


 私はおかえり祭りがある我が故郷で生まれ、子ども時代を過ごしたところまでは他の我が故郷の人々と一緒だったが、その後、我が故郷から離れた。

 ただ、我が故郷を離れて36年の歳月を経て、おかえり祭りを契機として、我が子を連れて我が故郷を再訪するようになった。


 そして、私は我が子に、それも私と同様の真新しいスポンジの子ども時代に、我が故郷の人々のおかげで、おかえり祭りと我が故郷の水を注ぎ込むことができた。

 私にもいずれ静かに祭りを楽しむ時期がやってくるだろうが、それ以前に、我が子におかえり祭りと我が故郷を知ってもらえ、少しでも引き継ぐことができたことを、私の人生においてかけがえのない財産だと思っている。



№69 団員募集(平成27年5月13日)

 祭り1周間前の5月9日(土曜日)と10日(日曜日)に、同級生との久しぶりの親交を温めたり、青年団による新旧神輿の入れ替えや台車のギーギーなどを見るために、私は我が娘を連れて我が故郷を訪れた。

 その際、私はその玄関口であるJR美川駅の壁に、私にとって足を止めざるを得ない張り紙を見た。


 それは青年団の団員募集の張り紙で、そこに書かれていたのは団員数が10年前の約2分の1に減っており、ラッパ、扇子、担ぎ手などによる神輿の渡御が難しくなっていることなどが書かれていた。


 青年団も在籍期間の延長やOBからの応援など、あの手・この手で神輿渡御を毎年続けているが、今後5年、10年先を見据えた場合、厳しい状況であることが私にも理解できた。


 それに今年、同級生から送られたラッパの練習風景の写真には、昨年より少ないラッパ手しか写っておらず、同級生が語るこの理由は、最年長学年のラッパ手が抜けたにもかかわらず、新人のラッパ手が入って来ず、8人のラッパ手での奉仕となるとのことだった。


 8人全員、昨年からのラッパ手らしいということなので、熟練度の高いラッパの音を聞ける一方、人数が少ない分、個々のラッパ手に負担がかかるため、ラッパ手の唇が腫れたり、切れたりすることが予想され、心配な面もある。


 この状況は長く我が故郷の伝統を代々守ってきてくれた青年団にとって、いや我が故郷や私にとっても由々しき事態である。


 我が母校美川小学校の校長である同級生に聞いても、全学年で200人ぐらいの児童数で、私の子どもの頃の3分の1程度となっている。


 現在、我が故郷でおかえり祭りを経験した我が息子は大学3年の20歳なので、許されるものなら、神輿の担ぎ手にとも思い、我が故郷が好きな我が娘からも説得にあたらせたが、脈はなかった。


 振り返ると、私が現在の息子の年代の頃は、我が故郷と疎遠となっていたこともあり、こんな父親から直接・間接にかかわらず、勧められても説得性を欠いている。

 また、我が息子は子どもの頃、私の出身町の台車に乗り、我が故郷の同世代の何人かと知り合いとなっているものの、それはほんの一部であり、ほとんど知らないコミュニティーの中に入っていくのは抵抗があるものと推察される。


 今の私には、このメッセージを呼んだ我が故郷在住および、進学・就職で我が故郷を離れた若衆にはぜひ神輿渡御の奉仕に一人でも多く参加し、同世代との連帯感や、着輿した際の達成感、その感動・感激を味わっていただきたいと切に望むだけである。


 私は青年団という祭りの花形の時期を経験することがなく、その私が、今、青年団を見て思うのは、一言でいうと「後悔先に立たず」である。


 なお、「若衆」だが、我が故郷では「わかしゅう」ではなく、「わけしゅう」と発音する。



№70 は、始まる(平成27年5月14日)

 2日間にわたるおかえり祭りは、早朝の青年団による「集合ラッパ」で始まり、このラッパの音が聞こえると、自宅でほとんど寝ずに待っていた青年団は、母校美川小学校に集合することになっている。

 この「集合ラッパ」は、これから祭りが始まることを町中に知らせる、大相撲でいう触れ太鼓の役目も持っている。


 その後、青年団は団旗を先頭に「行進ラッパ」の音高らかに、17時間超にも及ぶ神輿渡御のスタート地点となる藤塚神社へ威風堂々の行進をする。


 私は子どもの頃、青年団の「集合ラッパ」と「行進ラッパ」を布団の中ではあるが、聞いていた。

とくに「行進ラッパ」は、この早朝の青年団の行進が我が家の近くを通るので、その音で布団の中にいる私の頭は半分目覚めることになる。

 そして、その時の私の頭は半分の目覚めなので、少し吃(ども)って、祭りがいよいよ「は、始まる」(今思うと、正確には「は、始まった」)と思ったものだった。


 しかし、そのまま布団の中にいた私は、母親が作る祭り料理の臭いやその気配から、ついに布団を這い出し、我が家からそう遠くない藤塚神社へ顔も洗わず向かうことになる。

 そして、この姿を見た母親が私の名前を呼びながら私を追いかけて来てくれ、湯で濡らし、固く絞ったタオルで顔を拭いてくれたことを覚えている。


 余談だが、「行進ラッパ」について、仲代達矢主演の映画「人間の條件」の中に原曲を聞くことができるが、我が故郷のものは口伝のためか少し違うものになっており、私の印象では原曲より威勢がよく元気な曲となっている。


 また、祭り料理について、当時、我が家のような決して豊かでない家庭では、現在のような仕出し料理とは違って、手作りの煮しめなどを持った大皿料理であり、祭り見物に来る親戚などのために用意し、それを小皿に取って食べていた。


 もう一つ余談で恐縮だが、私は各家庭で母親が作る祭り料理の臭いや気配なども含めて、これらすべてが祭りだと思っている。


 話は戻って、我が家を出て数十メートル歩くと、私の目には、藤塚神社前に神輿が、そして、その周りに鉢巻やわらじの紐を締め直している青年団が見えてくる。

 その頃には、頭の中もさえ始め、さらに近づくと、青年団の輪の中に神輿に脚を取り付ける消防団も目にすることができる。


 そして、しばらく青年団のそばで待つと、神輿に梯子がかけられ、この梯子を青年団祭礼委員長が「鳳凰」を自分の右肩に担いで登り、その「鳳凰」を右手で高々と掲げ上げた後、神輿の頂上に差し込むのを目にすることができる。

その際、他の団員などからやんやの歓声と拍手が沸き起こることになる。


 この様は今思うと、早朝と深夜の違いこそあれ、青年団団長の「鳳凰」を抜き出した後、掲げ上げるシーンを、ちょうど映画のフィルムを逆回したようであり、朝陽を浴びた「鳳凰」は夜とはまた違った清々しい顔を見せている。


 この時、私が小学校に登校する1時間近くも前であり、私にとって、いや我が故郷の人々にとって1年で最も長く、興奮した2日間がこうして幕を上げるのである。


 

№71 今年もまた(平成27年5月22日) 

 祭り初日の早朝、私は今年もまた、青年団による神輿のお発ちを見るために藤塚神社前にいた。


 今年は雨天のため、消防団による神輿の脚の取り付けに時間がかかり、お発ちが遅れたが、私にとっては傘をさして待つこのような時間さえも、貴重な祭りの一コマである。


 とくに今年は、お発ちの前に恒例となっている、「鳳凰」を掲げ上げる、今年の青年団祭礼委員長の父親が私の知己であるというのを、私はこの父親から待ち時間に声を掛けられたため知ることができた。

 また、この父親とともに祖父母も、学年でたった一人選ばれた孫の一生に一度の晴れ姿を見ようと、肌寒い中、その時を待っていた。


 その間、私はこの祖父から、神輿の今昔の担ぎ方を比較して、「今の若者(わけもん)は重いもんを肩で担ぐ仕事を(昔みたいに)しとらんから、神輿を担がんと高々とさし上げるがや」という貴重な話も伺えた。


 そして、この待ち時間、青年団は傘もささず、カッパも着ずに待っている姿を見ると、私は我が故郷の若衆の雨に濡れるのを物ともしない血気に対し、感動を覚えずにはいられなかった。


 そうこうしているうちに、脚の取り付けが終わり、神輿に梯子がかけられると、右肩に「鳳凰」を担いだ祭礼委員長が雨のためか一歩一歩慎重な足取りで梯子を登っていく様が見て取れた。


 登り切り「鳳凰」を両手で持ち、正面を向く彼の顔を見ると、少し緊張の面持ちが見られたものの、動作は落ち着いていた。

そして、父親の「お前が落ちてもいいけど、『鳳凰』を落とすな」という厳しい言葉が飛んだ後、雨天という悪条件にもかかわらず、彼は「鳳凰」を例年に負けず劣らず、見事に右手一本で高々と掲げ上げた。


 その後、カメラのシャッター音が私の耳に残る中、祭礼委員長は「鳳凰」を神輿の頂上に差しれた後、若衆らしく、元気のいい、これも毎年恒例の「よっしゃ、行くぞ」の彼の声が神社前に響いた。

 

 この声を聞くと、私は「ああ今年もまた1年で最も長く、興奮した我が故郷の2日間が幕を上げた」と思った。


 さらに、今年はこの祭礼委員長の父親が私の子どもの頃からの知己だけに、私は父親に似た気持ちになり、このような大役を果たしたことに内心うるっとした。


 私は彼ら父子の顔を見ながら、我が故郷はこのような若者(わけもん)がおる限り「じょまね」(大丈夫)と、また、今年も「いいもん見しちもろた」と心底思わずにいられなかった。


№72 続今年もまた(平成27年6月6日) 

 今年もまた神輿の「お発ち」を見た。やはりこの日最初の渡御ラッパを聞かないことには、私にとって我が故郷の最も長い一日の始まりが実感できない。


 この頃、小雨が降ったりやんだりする中、先頭の今町から順に、台車は主役の神輿が不在となった藤塚神社前へ向かい、右手にその山門を見ながら西進していく。


 そして、南町から中町に入って東進し、さらにJR美川駅前をギーギーという独自のきしみ音とともに13台の台車が一列に通過していく様を、一定の距離を置いて見るのは圧巻である。


 その後、神輿は北陸線の踏切を渡り、台車の巡行しない地域も渡御した後、中町を東進し、だいたい午前9:30すぎに、駅前にその姿を表す。

 この頃には新聞やテレビ局の取材陣、見物客など大勢の人が日中のメインイベントである青年団による神輿の駅前渡御を見ようと集まり、駅前は1年で最も賑やかなる。


 神輿は、今は担ぎ手が少ないものの、それを補って余りある気合が入った渡御を見せてくれた。

 ラッパ手は神輿のお着きと同様に二重と三重のラッパ吹奏を何度も繰り返し大変であるが、見栄えが悪い下を向いて吹いている者はおらず、全員がラッパを水平にして吹いており、この姿は実にきれいであった。


 ここで今回は旗手について少し詳しくその様子を述べたい。旗手はその全員が順次旗を振るが、旗手間の旗を受け渡す際に、その双方の旗手の上半身に巻いた白紐が絡み合って旗振りが一時途絶えたことがあった。

しかし、別の旗手がナイス・フォローをし、旗振りの中断が最小限の時間で済み、旗手のチームワークのよさを見せてくれた。


 余談だが、旗振りがなくとも扇子で神輿渡御はできるものの、やはり旗手は旗を振って“なんぼ”である。


 そして、旗手長であるが、彼はタッパ(身長)があり、古武士然とした風魂もさることながら、それ以上に力強い旗振りが素晴らしく、私は久々に旗を振る際のバシッという風切る音を聞いた。


 駅前渡御が終わると、車座になった青年団の輪の中で、旗手の余興が始まるが、私はここでの旗手長の発声に惚れ惚れした。


 というのは、彼の声は例えが古くて恐縮だが、浪花節歌手のようなドスのきいた低音で、団員をリードするにふさわしい芯の通った声であったからで、今年の旗手長は、まさしく“This is the kishucho”であると思った。


№73 続々今年もまた(平成27年6月7日)


 今年もまた正午少し前に、先頭の今町は自町の正寿寺あたりに台車を停め置いて、また、今町に続く他の台車も順次、巡行していた道に停め置いて昼食休憩に入った。


 余談だが、今町台車は永代町の旧役場(現図書館)あたりに停め置いて昼食休憩に入る予定になっているが、やはり自町の休憩場所近くに停め置いた方が何かと都合がよいので、毎年、このようにしているようである。


 神輿も新町と本町通りの交差地点で停め置いて、昼食休憩を取るために、団旗を持った旗手長を先頭に整列し、行進してJR美川駅へと向かう。これは復路も同じである。


 私はこの行進も青年団による演技であると思っている。その理由は、三々五々に休憩に向かったのでは絵にならないが、練習で培った協調と団結のもと、統制がとれた行進は美しく絵になるからである。


 この行進ついて、階上から青年団を見るのは不敬であると思っている方もおられるようだが、神輿渡御の際はそのとおりである。

 しかし、行進に対してはこのようなことはなく、階上からでもこの演技をご覧になって、ぜひ温かい拍手を青年団に対して送っていただきたいと思う。


 また、行進の際、先頭は先述したとおり旗手長であるが、彼の上げた右手が降ろされた時、行進がスタートする。

万一、不測の事態が起こった時は、彼の瞬時の判断で行進は足踏み状態で停まることになり、彼のこの判断が事故やトラブルなどを未然に防ぐ。


 昼食休憩が終了すると、台車は残りの巡行路のうち、末広町西と高浜を含む浜町を残してくまなく巡行し、夕方には本町通りの旧美川温泉跡地前に今町から末広町までの13台が揃って停め置かれ、夕食休憩(小宴会)に入る。


 この頃、神輿は美川小学校で台車より一足早い夕食休憩を終えた後、和波町を東進し、大正通りのもと江さん(もと江呉服店)前で停め置かれる。

 団長や祭礼委員長、旗手長、ラッパ手など主だった団員は、前年度OBの応援を仰ぐため、厳かな行進をして、前年度団長(または祭礼委員長)宅へ向かうが、神輿前に残った他の団員はこの待ち時間に、旗手を筆頭に芸を披露することになっている。


 私はこの芸を楽しみにしてよく見ており、この芸の中には何回も見た古典芸もあるが、今の時代の若衆の志向を反映した新しい芸もある。


 今は団員数が少なくなり、1人の団員が手を変え品を変え、4回も5回も行なうこともあるが、笑いのセンスのある団員の芸を見ると、何回見ても、また、何度も見た古典芸でさえ面白い。


 笑うと時間の経つのは早いもので、行進ラッパが聞こえ、行進が到着すると、この場所で新旧団長の挨拶交換が行われることになるのだが、今年はちょうどこの頃、私は出身町の台車の出発時間なので、この場を後にすることになった。


 いよいよこの後は、祭り初日のハイライトへ突入することになり、休憩開始の時にはまだ明るかった辺りはすっかり暗くなり、祭りは昼間の顔とは180度違った顔を見せてくれる。


№74 来年もまた(平成27年6月18日) 

 おかえり祭り初日は夜になると、ここからが本番とばかりに、青年団や町衆、見物客などの興奮と熱気に我が故郷は包まれることになる。


 そして、今年もまた台車は本町通りから末広町、浜町西を巡行し、しらさきや横(浜町と大正通りの交差地点前)から浜町筋に13台すべてが一列に並ぶ。


 この後、順次3台乃至4台のグループごとに高浜に向かって巡行していくが、私の子どもの頃、浜町は今のように拡幅されていなかった。

 このため、当時、台車のプラチナシート(階段の最上段)に乗っていた私にとって、巡行する台車の両側に並ぶ露店やその灯りが間近に迫って臨場感があった。

 また、その露店の屋根を跳ね上げた狭い中を進みゆく中、曳手はこの狭い道の両側の見物客を手で制する様は、私や台車のための露払いのようで、まさに歌舞伎の花道を進むがごとくであった。


 今は残念ながら十分な幅員があるため、露店の屋根を跳ね上げる必要もなく、臨場感や迫り来る賑やかさや光などは当時と比較にならない。

 しかし、「エージャー、エージャー」の掛け声とともに台車が進みゆく様は、子どもの頃から見聞きした我が故郷に生まれ育った者でしか理解し難いような何かがこみ上げてきて、私を感動させずにはおかない。


 そして、私は今年、高浜に入る際において、台車前で提灯を持って先導する役目だったが、後ろ向きに真っ直ぐ歩くのはかなり大変であった。

また、青年団の団長や祭礼委員長などが提灯を持って整然と団体として統制を持って後ろ向きに歩くことなど及びもつかぬことであった。


 ただ後ろ向きに歩いていたため、提灯の灯りや照明に照らされた台車の金箔や金具などの金色(こんじき)が荘厳に映える様を前から注視することができ、昼とは違った夜の祭りの一面を満喫した。

それは、特に私の出身町の台車は屋根型であるので、まさに「動く仏壇」と形容するに相応しく豪華で見事なものであり、このような財産を先人が残したくれたことに改めて感謝せずにはいられなかった。


この後、台車は高浜の大鳥居前で停まり、1台ごとに順次台車の格納庫前と小鳥居前を何回か曳行された後、格納庫に次々と整列していく。

 最近は私が我が故郷を再訪する頃とは少し様相が違い、私の出身町においては台車の前輪を高々と担ぎ上げ、高浜を長々と曳き回すようなことがだんだんとゆるやかになり、少し大事にしていただけることはうれしい限りである。


 その後、いよいよ祭り初日のメインにイベントである青年団による神輿の「お着き」となり、その後、すぐさま台車は格納庫に仕舞われる。

 しかし、青年団の周囲はまだまだ賑やかで興奮しており、青年団団長の「鳳凰」の掲げ上げが行われる。

 これらの「お着き」と「鳳凰」の掲げ上げについて、初めて見た見物客は大変いいものを見しちもろたということになり、「来年もまた」見に来るリピーターが多いと聞く。


 そして高浜のお旅所では着輿式が「ほー、ほー」という神主の声とともに行われた後、すでに暗くなった高浜で青年団は整列のうえ行進して神幸町で解散となり、「我が故郷の一番ながい日」がこうして終わることになる。


 私は「我が故郷の一番ながい日」を振り返り、この祭りが「来年もまた」、いや孫子の代まで続くことを「美川の神(かん)さん」に祈念せずにはいられなかった。


№75 母校の図書室(平成27年12月6日)

 平成27年12月5日付けの新聞(朝刊)に「母校の小学校に、20代後半から41年間にわたり、毎月、図書費を匿名で送り続けてきた男性」の記事が掲載されていた。

 

この男性は、母校が児童数減少により来春、閉校することになったため、ついに姿を見せ、母校の児童と最後の交流を楽しんだ。

 

なお、図書費を送り続けた理由は「私は子どもの頃、環境に恵まれず、地域の恩を受けた。その恩返しのつもりで続けてきました」と新聞には記載されていた。

 

この記事を見て、私が我が母である校の美川小学校の6年生だった頃、高齢の卒業生から多数の贈書を受けたことを思い出した。

 

この当時、同じクラスだった児童会会長がお礼の言葉をしたため、私たちは先生とともに、この篤志家の来校に備えたのだが、残念ながら高齢のため体調が許さず、お礼をすることはかなわないまま卒業となってしまった。

 

私は当時、本が好きで放課後よく図書室に通い、歴史や名作ものなどを読み、インターネットがない時代だったから、百科事典などで調べ物をしたものだった。

 

今となっては確かめようもないが、きっとこのとき読んだ本の中にこの贈書も入っていたのだと思うと、この記事を読んで、すでに故人なられたであろう篤志家を大変ありがたく思い出した次第である。

 

今、私たちは紙から電子媒体へ、2000年ほど前に石版から紙に変わった時以来の大きな過渡期にいるが、伝える媒体が変わっても、伝えることは続いていく。

 

私も地域と母校は今、心の中に大きなウエートを占めており、おかえり祭りを契機として今、少年時代を過ごした地域と母校を自分の大切なものと思えるのは幸いなことである。

 

ただ残念なのは、この当時、おかえり祭りのことを調べようと思った私にとって、対象とする本がなかったことであった。

 

しかし、今はインターネット時代となり、おかえり祭りに関する写真や動画、新聞記事、体験記などが自宅にいながら見られることは大変ありがたいことである。

 

さて、冒頭に述べた新聞記事の男性に戻って、この男性は母校が閉校となり、二度と後輩の子ども達と交流する機会がなくなることから名乗り出たのであるが、多分母校が閉校にならなかったら、死ぬまで姿を見せなかったと推測する。

 

世の中は無常とはいえ、我が故郷もさまざまなものが消えていったが、おかり祭りと母校に加え、今や我が故郷も白山市となり、この地域を形作っている白山・手取川・日本海などの豊かな自然、そして、地域の味である「こんかづめ」は22世紀も変わらず残ってほしいと、私は今、強く強く思っている。